毎月の集計を正確に仕上げ、細かな依頼にも丁寧に対応し、予定外の仕事が入っても何とか締め切りに間に合わせる。それだけ懸命に働いているのに、翌月には同じ作業が待っており、仕事の負担も成果も思うようには変わらない。日本の職場には、こうした状況が見られることがあります。
担当者は決して手を抜いているわけではありません。むしろ、仕事への責任感が強く、周囲の期待に応えようとするからこそ、多少不便な仕組みでも自分の工夫と努力で乗り越えようとするのでしょう。しかし、その真面目さによって仕事が回っているとすれば、改善すべき問題が見過ごされている可能性があります。
日本は、国際学力調査や成人の技能調査で高い水準を示す一方、労働生産性の国際比較では低い位置にあります。この隔たりは、働く人の能力が不足しているという説明だけでは理解できません。
重要なのは、高い能力を持つ人が、どのような道具を使い、どのような仕事を任され、どのような環境で成果を生み出しているかという問題です。
本記事では、国際統計を基に日本の学力と労働生産性の関係を確認し、特に重要な二つの構造的課題を掘り下げます。一つは、人の努力に依存し、デジタル技術を十分に生かせていない業務構造です。もう一つは、育成された能力を、より付加価値の高い仕事へ移しにくい雇用制度と労働市場の仕組みにあります。
さらに、生成AIの普及や企業の新陳代謝、人材評価の問題にも触れながら、企業と個人が何を変えられるのかを考えていきます。
日本の高い学力と低い労働生産性の隔たり
PISA2025が示す世界トップ水準の学力
日本の労働生産性が低いと聞くと、働く人の能力や教育水準に原因があるのではないかと考える人もいるでしょう。日々の仕事で努力している人ほど、こうした数字を自分自身への評価のように受け止め、さらに頑張らなければならないと感じるかもしれません。
しかし、国際的な学力調査を見ると、日本には高い基礎能力を備えた人材を育ててきた実績があります。
2026年9月8日、文部科学省と国立教育政策研究所は、OECDが実施した「PISA2025」の結果を公表しました。
PISAは、義務教育修了段階にある15歳の生徒を対象として、習得した知識や技能を実生活の課題にどの程度活用できるかを測定する国際調査です。単に授業内容を暗記しているかではなく、与えられた情報を理解し、問題を考え、根拠に基づいて判断する能力も対象になります。
今回、日本は科学コンピテンシー、読解力、数学的リテラシーの主要3分野すべてで、OECD加盟38カ国中1位になりました。
3分野で同時に首位となったのは、2000年の調査開始以来初めてです。
| PISA2025の分野 | 日本の平均得点 | OECD加盟38カ国中 | 全91カ国・地域中 |
|---|---|---|---|
| 科学コンピテンシー | 538点 | 1位 | 5位 |
| 読解力 | 503点 | 1位 | 4位 |
| 数学的リテラシー | 525点 | 1位 | 5位 |
| ラーニング・イン・デジタルワールドの公表部分 | 557点 | 1位 | 4位 |
ラーニング・イン・デジタルワールドの数値は、2026年9月に公表されたコンピュテーショナルな問題解決能力の結果です。自己調整学習を含む調査全体の結果は2027年に公表される予定であり、主要3分野とは測定範囲が異なります。
科学コンピテンシーでは、自然現象を説明する知識だけでなく、科学的な証拠の妥当性を評価し、意思決定に活用する能力も問われています。
数学的リテラシーについても、計算を速く正確に行う能力だけを測定しているわけではありません。現実の問題を数学的に捉え、適切な方法を選び、導き出した結果が何を意味するのかを解釈する力が対象です。
つまり、日本の教育上の強みは、知識を記憶して正しい答えを出すことだけではありません。情報を読み解き、根拠を確かめ、状況に応じて考えるための基礎的な能力にも、高い水準が見られるのです。
ただし、国際順位が上昇したことを、そのまま日本の学力が向上した証拠として受け止めるのは適切ではありません。
2022年の前回調査と比べると、日本の平均得点は3分野とも低下しました。科学コンピテンシーと数学的リテラシーの低下には統計的な有意差が確認されませんでしたが、読解力は13点の有意な低下を記録しています。
さらに、3分野すべてで低得点層の割合が有意に増加しました。
国際順位が高くても、学習面で困難を抱える生徒が増えているなら、その問題を見過ごすことはできないでしょう。一方、2015年以降の長期的な推移では、日本の平均得点に統計的に有意な低下傾向は確認されていません。
高い教育水準を維持していることと、すべての生徒が十分な力を身に付けられていることは、別々に考える必要があります。
日本の教育には確かな強みがある一方、能力の格差や学習機会の問題にも目を向けなければなりません。その両面を踏まえてこそ、高い学力を社会全体の成果へどう結び付けるかという問いを、より正確に考えられるでしょう。
国際成人力調査が示す働く世代の基礎能力
15歳の生徒の学力が高くても、社会に出てからその能力が維持されていなければ、労働生産性との関係を考える根拠としては十分ではありません。
学校で優秀な成績を収めた人が、必ずしも仕事で高い成果を出すとは限らないことは、多くの人が経験的に理解しているでしょう。職場では、知識に加えて経験や対人関係、専門技能、判断力なども必要になるためです。
そこで参考になるのが、成人を対象とした国際成人力調査です。
OECDが2022〜2023年に実施した第2回国際成人力調査では、31の国と地域の16〜65歳が調査対象になりました。
日本は、読解力と数的思考力の平均得点がともに2位となり、成人層においても高い情報処理能力を持つことが確認されています。
日本の平均得点は、読解力が289点、数的思考力が291点で、いずれもOECD平均を上回りました。状況の変化に応じた問題解決能力も276点と高い水準を示しています。
さらに、読解力で高い習熟度に当たるレベル4または5の成人は、日本では23%を占めました。OECD平均の12%と比較すると、複雑な文章を理解し、異なる情報を照らし合わせて評価できる人が比較的多いことが分かります。
数的思考力でも、上位の習熟度に達した成人は日本が25%、OECD平均が14%でした。
これらの結果は、日本の人的資本を考えるうえで重要な材料になります。
人的資本とは、教育や経験を通じて人が蓄積した知識、技能、能力などを指す経済学の概念です。学校で身に付けた基礎能力だけでなく、仕事で培った専門知識や問題解決能力も含まれます。
例えば、長年経理を担当してきた人には、数字を正確に扱う力だけでなく、異常値に気付き、業務の流れを理解し、問題が生じる前に対応する経験が蓄積されているでしょう。
そうした能力は、単に資格や学歴だけでは捉えきれません。
もっとも、国際成人力調査は、あらゆる職業能力を測定しているわけではありません。交渉力や創造性、組織を動かす能力、顧客との信頼関係を築く力などを含め、日本人全員の仕事の実力を順位づけした数字でもないのです。
それでも、高度な情報処理能力を持つ人材が日本に相当数存在するという判断を支える資料にはなります。
ここで浮かび上がるのは、能力そのものよりも、その使われ方に関する問題です。
十分な知識や技能を持っていても、毎日決められた数字を転記する仕事に大半の時間を費やしていれば、より複雑な分析や判断に能力を使う機会は限られます。
本人が努力を重ねても、仕事の役割や仕組みが変わらなければ、能力を十分な経済的成果へ結び付けられないという可能性があります。
教育によって人材を育てることと、その人材が力を発揮できる仕事を用意することは、同じくらい重要な課題なのです。
日本の時間当たり労働生産性はOECD38カ国中28位
高い基礎能力を持つ人材が多い一方、日本の労働生産性は国際比較で低い位置にあります。
日本生産性本部が2025年12月に公表した「労働生産性の国際比較2025」によると、2024年の日本の時間当たり労働生産性は60.1ドルでした。
購買力平価で換算した円額では5,720円に相当し、OECD加盟38カ国中28位です。
米国の116.5ドルと比較すると、日本は約51.6%の水準にとどまります。首位のアイルランドは164.3ドルであり、日本との開きはさらに大きくなっています。
| 労働生産性の指標 | 日本の2024年実績 | OECD加盟国内順位 | 米国との比較 |
|---|---|---|---|
| 時間当たり労働生産性 | 60.1ドル・5,720円 | 28位/38カ国 | 米国116.5ドルの約51.6% |
| 就業者一人当たり労働生産性 | 98,344ドル・935万円 | 29位/38カ国 | 米国180,993ドルの約54.3% |
| 製造業の名目労働生産性 | 80,411ドル・1,188万円 | 20位/主要35カ国 | 米国231,549ドルの約34.7% |
| 実質労働生産性上昇率 | マイナス0.6% | 33位/38カ国 | 指標の性質が異なるため単純な水準比較は不可 |
これらの数字を見ると、日本の職場で働いている人は、なぜ自分たちの成果がこれほど低く評価されるのかと疑問を感じるかもしれません。
ただし、統計の意味を理解するには、指標ごとの計算方法を区別する必要があります。
時間当たり労働生産性と就業者一人当たり労働生産性の国際比較には、購買力平価が使われています。購買力平価は、国ごとの物価水準の違いを考慮して経済規模などを比較するための換算方法です。
一方、製造業の名目労働生産性は為替レートで換算されているため、円安などの為替変動によってドル表示額が大きく変わる場合があります。
実際、日本の製造業の名目労働生産性は、円ベースでは上昇しているものの、ドルベースでは2018年の97,971ドルから2024年までに約18%低下しました。
だからといって、日本の製造現場で働く人の能力や生産効率が、同じ割合で悪化したとは判断できません。
時間当たり労働生産性の順位についても、2018年の21位から2020年には28位となり、2024年も28位でした。2024年の実質労働生産性上昇率はマイナス0.6%であり、改善が容易ではない状況を示しています。
もっとも、国際順位の変化には、他国の成長や産業構成なども関係します。
日本の数字が低いことを軽視するべきではありませんが、順位だけを根拠に働く人の能力を否定するのも適切ではないでしょう。
労働生産性は個人の努力や年収を示す数字ではない
労働生産性という言葉を聞いたとき、仕事が速い人や多くの業務をこなせる人を思い浮かべるかもしれません。
しかし、経済統計で用いられる労働生産性は、個人の作業能力を直接測定したものではありません。
時間当たり労働生産性は、国全体で生み出した国内総生産、つまりGDPを総労働時間で割って求めます。
時間当たり労働生産性=GDP÷総労働時間
この指標が示しているのは、働いた1時間当たりに、どれだけの経済的な付加価値が生み出されたかということです。
付加価値とは、事業活動を通じて新たに生み出された経済的価値を指します。国民経済計算では、生産額から原材料などの中間投入を差し引く考え方に基づいて把握されます。
したがって、労働生産性は、個人の年収や時給、仕事への熱意、真面目さを直接評価する数字ではありません。
例えば、ある人が毎日大量の書類を正確に処理し、周囲から頼りにされているとします。本人は確認作業を怠らず、予定外の依頼にも対応し、締め切りを守るために勤務時間を延ばすこともあるでしょう。
それでも、その仕事が新たに生み出す付加価値が小さければ、経済統計上の労働生産性は高くなりません。
反対に、設備やソフトウェアを利用し、短い時間で多くの付加価値を生み出す仕事では、担当者の労働時間が短くても生産性は高くなり得ます。
さらに、国全体の生産性には、設備投資、産業構成、技術水準、競争環境、価格設定、経営能力なども影響します。高い付加価値を生む事業が経済全体にどの程度存在しているかも、重要な条件です。
つまり、生産性が低い職場で働いていることと、その人の能力が低いことは、同じ意味ではありません。
また、PISAの対象となる15歳の生徒と、GDPを生み出している就業者では、調査対象も時点も異なります。高い学力と低い労働生産性という二つの統計を並べただけで、原因を証明できるわけでもないのです。
その前提を踏まえ、本記事では二つの構造的課題に焦点を当てます。
第一の課題は、機械やデジタル技術に任せられる仕事を、人の努力で処理し続ける業務構造です。
第二の課題は、育成された能力を、より高い付加価値を生み出せる仕事へ移しにくい雇用制度と労働市場の仕組みにあります。
どちらも、働く人の能力を否定する問題ではありません。すでにある力を、どのような仕事に使うかという問題です。
理由1 手作業に依存する業務構造とデジタル活用の課題
優秀な担当者が改善を後回しにする可能性
ある会社では、月末になると各部署から売上や経費のデータが送られてきます。
部署によって表の形式が違い、商品名や部門名の表記も統一されていないため、担当者は一つずつ確認しながら数字をまとめなければなりません。
表記の違いを修正し、不整合を調べ、集計結果を経営会議用の資料へ整理するまでには、相応の時間がかかります。
担当者は長年この仕事を続けており、多少の不備があっても自分で判断して修正できます。締め切りを守る責任感も強く、周囲からは正確で頼りになる人として評価されているでしょう。
しかし、仕事の流れを詳しく見ると、毎月同じような修正や転記が繰り返されている場合があります。
本来なら、データの形式を統一したり、システム同士を連携させたりすることで減らせる作業を、担当者が自分の努力で処理しているのです。
もちろん、本人が改善の必要性に気付いていないとは限りません。
むしろ、毎月同じ修正を繰り返すことに疑問を感じ、何とかしたいと考えている可能性もあります。それでも、改善案を作り、関係部署と調整し、システム変更の承認を得るには、時間と労力が必要です。
目の前には今月の締め切りが迫っています。
その状況では、仕組みを変更するよりも、慣れた方法で自分が処理したほうが早く確実だと感じても不思議ではありません。
一度だけなら、その判断は合理的でしょう。しかし、毎月同じ選択を繰り返せば、改善のために使えたはずの時間が、定型作業に吸収され続けます。
さらに、担当者が優秀であるほど、業務の不便さが表面化しにくくなります。
資料は予定どおり完成し、数字にも大きな誤りがなければ、管理者は現在の仕組みに問題があると気付きにくいからです。
担当者が毎月残業していても、その負担を詳しく把握していなければ、システムへの投資や業務改革は後回しになるという可能性があります。
ここで区別したいのは、担当者がその仕事を処理できることと、その人が同じ作業を続けるべきことです。
腕のよい漁師が一本釣りで多くの魚を捕れたとしても、網を利用すれば、同じ時間に扱える量は変わるでしょう。仕事も同様に、個人の能力だけでなく、適切な道具によって成果の生み出し方を変えられます。
数字を正確に扱える人には、その能力を使って事業の問題を見つけ、改善の方向を考えてもらうこともできるはずです。
すべての数字を手作業で転記することが、その人の能力を最も生かした仕事とは限りません。
丁寧な仕事を維持しながら生産性を高めるには、努力を増やす前に、仕事の設計そのものを見直す必要があるのではないでしょうか。
工場のロボット化と職場のICT活用に見られる違い
日本の労働生産性が低い理由を、技術の導入に消極的な国民性だけで説明することはできません。
日本の製造業では、世界的に見ても高い水準の自動化が進んできたからです。
国際ロボット連盟の統計によると、2024年の日本のロボット密度は、製造業の従業員1万人当たり446台でした。
これは世界第4位に当たり、米国の307台と比較すると約1.5倍の水準です。
ロボット密度とは、製造業で稼働する産業用ロボットの台数を、従業員数との関係で示した指標です。工場における機械化や資本装備の程度を比較する材料になります。
日本の製造現場では、品質を維持しながら大量の製品を生産するため、長年にわたって機械化や工程改善が進められてきました。
現場の担当者が機械の動きを観察し、不具合を発見して改善するような取り組みも、製造業の強みを支えてきたと考えられています。
一方、オフィスやサービス業の仕事に目を向けると、異なる状況が見えてきます。
2023年の国際成人力調査を基にしたOECDの比較では、日本の職場におけるICT使用頻度は、国際的に低い水準にあることが示されています。
ICTとは、情報の処理や通信に利用するデジタル技術を指します。
この調査で扱われているのは、メールによる連絡、情報検索、電子文書や表計算の作成、専門ソフトウェアの利用などです。職場でこうした活動をどの程度行っているかを把握するための指標であり、デジタル機器を操作する能力そのものを測定した数字ではありません。
また、ICTの利用経験がある回答者を中心とした集計であるため、日本のすべての就業者によるデジタル技術の利用状況を、そのまま示しているわけではありません。
利用頻度が低いことと、デジタル機器を操作する能力が低いことは同じではないのです。
仕事内容によって必要な使用頻度は異なりますし、ICTを頻繁に使えば必ず生産性が高くなるとも限らないでしょう。
また、ロボット密度とICT使用頻度は測定対象が異なるため、二つの指標だけで製造現場とオフィスの優劣を判断することも適切ではありません。
それでも、日本では製造業の設備自動化が進んでいる一方、情報処理を中心とした仕事では、デジタル技術の利用方法に改善余地があると考えられています。
工場では機械が繰り返し作業を担っていても、オフィスでは人が同じ数字を何度も入力しているという状況が残っているかもしれません。
この違いを理解するには、導入されている技術だけでなく、その技術を使って仕事を改善する人材が、どこに配置されているかを考える必要があります。
IT人材の偏在が業務改善を難しくする仕組み
デジタル技術によって仕事を変えるには、現場の業務を理解する人と、システムを設計・改善できる人が協力する必要があります。
ところが、日本ではIT人材の多くが、システムを利用する事業会社ではなく、開発や保守などを提供するIT企業に所属してきました。
情報処理推進機構(IPA)の「IT人材白書2017」に掲載された2015年の比較では、日本の情報処理・通信に携わる人材の72.0%がIT企業に所属していました。
IT企業以外に所属する割合は28.0%であり、米国とは大きく異なります。
米国の2015年のデータでは、IT企業以外に所属する割合が65.4%でした。事業会社の内部にIT人材が配置されている割合が、日本より高かったのです。
その後の調査でも、同様の傾向が確認されています。
| 所属先 | 日本 2020年 | 米国 2021年 |
|---|---|---|
| IT企業 | 73.6% | 35.1% |
| IT企業以外 | 26.4% | 64.9% |
IPAが2023年に公表した更新資料では、日本のIT企業所属割合が73.6%であるのに対し、米国は35.1%でした。
ただし、日米では統計の対象年と職業分類が異なるため、厳密に同一条件で測定された数字ではありません。また、これらは2026年現在の所属割合を示すものではなく、当時の人材配置を比較した資料です。
それでも、日本でIT人材が事業会社の外部に多く配置されていることは、デジタル化の進め方を考える重要な論点になります。
例えば、ある小売会社では、在庫管理システムから商品ごとの販売データを出力し、担当者が表計算ソフトで整理しているとします。
現場では、販売傾向や在庫の変化をもっと簡単に確認したいと考えています。しかし、システムの仕様を変更するには、外部の開発会社へ依頼しなければなりません。
費用の見積もりを取り、変更内容を説明し、社内承認を得るだけでも相応の時間がかかります。
担当者にとって、改善の提案は通常業務に加えて行う仕事です。変更が実現するか分からないなら、多少不便でも今までの方法を続けたほうが確実だと感じるでしょう。
その結果、小さな不便が長期間残る可能性があります。
一方、業務を理解する人と技術者が同じ組織にいれば、現場で困っていることを共有し、小さな改善を試しやすくなります。
変更後に問題が見つかれば修正し、効果があれば対象を広げることもできるでしょう。
このように、短い周期で試行と修正を繰り返す進め方は、一般にアジャイル型の改善と呼ばれています。
もっとも、すべてのシステムを社内で開発することが最適とは限りません。
専門性の高いシステムや大規模な開発では、外部の技術者を活用するほうが合理的な場合もあります。外部委託によって高度な技術を利用できることは、企業にとって大きな利点です。
重要なのは、開発を外部に依頼することと、改善の方針や判断まで外部に任せてしまうことを区別する姿勢でしょう。
利用する企業の内部に、仕事の進め方を変える主体が存在しなければ、新しいシステムを導入しても古い手順が残り続けるという可能性があります。
特注システムが古い仕事の進め方を固定する問題
企業ごとの業務に合わせて開発する特注システムには、既存の仕事に適合しやすいという利点があります。
長年使ってきた帳票や承認手順を再現できれば、従業員は大きな混乱なく新しいシステムへ移行できるでしょう。
しかし、その使いやすさが、改善すべき仕事まで残してしまう原因になる場合があります。
例えば、紙の書類を複数の管理者が順番に確認していた職場で、その承認手順をそのまま電子化したとします。
紙を印刷したり運んだりする手間は減るかもしれません。それでも、必要性の低い承認が残り、担当者が順番に確認しなければならないなら、意思決定にかかる時間は十分に短縮されないでしょう。
さらに、システムを変更するたびに追加契約や改修費用が必要であれば、業務の進め方を見直すことにも慎重になります。
その結果、システムの周囲に新たな手作業が発生する場合があります。
担当者がデータを出力して修正し、別のシステムへ入力し直しているなら、デジタル化によって作業負担を減らすという目的は十分に達成されていません。
内閣府の「2022年度経済財政白書」も、ユーザー企業におけるIT専門人材の不足が、デジタル投資のあり方に影響する可能性を指摘しています。
また、OECDの「日本経済審査2026」では、ソフトウェアなどの無形資産への投資を生産性向上につなげるため、組織改革や人材育成への補完的な投資が重要だとされています。
無形資産には、ソフトウェアだけでなく、研究開発や組織運営に関する知識なども含まれます。
つまり、デジタル化に必要なのは、システムを購入するための予算だけではありません。
従来の仕事を見直す時間、新しい使い方を学ぶ機会、改善を提案できる環境、業務と技術の両方を理解する人材にも投資する必要があります。
新しい道具を導入しても、古い仕事の進め方まで自動的に変わるわけではないのです。
この問題は、生成AIが普及したことで、さらに身近な課題になっています。
生成AIの利用拡大と業務変革が進まない理由
日本企業の生成AI利用率86.4%が示す変化
生成AIの普及によって、日本企業の技術活用は大きく変わり始めています。
総務省が2026年7月に公表した「2026年版情報通信白書」によると、自社の何らかの業務で生成AIを利用していると回答した割合は、日本で86.4%でした。
ただし、この数字は、デジタル化に取り組む従業員10人以上の企業の管理職以上を対象とした調査で、活用方針を「わからない」と回答した対象を除いて集計されたものです。
全国のすべての企業における利用率を示しているわけではありません。
小規模な事業者や、デジタル化への取り組みが十分に進んでいない企業まで含めた日本全体の普及状況を、この86.4%という数字だけで判断することは適切ではないでしょう。
それでも、調査対象となった企業では生成AIの業務利用が広がり、米国、ドイツ、中国との差も縮小しています。日本企業が新しい技術を利用していないと一括りにすることはできません。
また、所属企業の生成AI活用方針について、積極的に利用する方針か、利用領域を限定して活用する方針があると回答した割合は68.9%でした。
前年調査の49.7%から上昇しており、導入に向けた企業の姿勢にも変化が見られます。
数年前まで生成AIの利用に慎重だった職場でも、文章の下書きや情報整理に使う人が増えているかもしれません。
以前は新しい技術を使うことに不安を感じていた管理者が、実際の業務で利用する社員を見て、少しずつ導入を認めるようになる場合もあるでしょう。
一方、利用率と活用方針の割合は、設問や集計条件が異なります。両者を直接比較し、企業がどの段階まで導入を進めているかを判断することはできません。
また、生成AIを使っている企業が増えたことと、その技術によって業務の生産性が向上したことは、同じ意味ではありません。
重要なのは、技術の普及と、仕事の進め方そのものを変える取り組みを分けて考えることです。
生成AIを使っていても仕事が減らない背景
生成AIを利用してメールを作成する時間が短くなったのに、なぜか仕事全体は楽にならないと感じる人もいるでしょう。
その理由を考える手掛かりが、生成AIの利用と業務変革の違いにあります。
2026年版情報通信白書では、生成AIの活用方針について利用を禁止していると回答した対象を除き、業務変革に向けた組織的な取り組みを尋ねています。
その集計では、組織的な取り組みがないと回答した割合は、日本で27.0%でした。
米国は1.4%、ドイツは4.9%、中国は2.6%であり、日本の割合が比較対象の4カ国で最も高くなっています。
一方、日本で全社横断、部署単位、個人業務単位のいずれかで組織的な活用に取り組んでいると回答した割合は65.6%でした。
この違いを、身近な仕事で考えてみましょう。
ある会社では、社員が生成AIを利用し、会議の議事録を短時間で作成できるようになりました。
以前は録音を聞き返しながら文章をまとめていましたが、今では下書きを作成する負担が減っています。担当者にとって、作業時間を短縮できることは確かな利点です。
しかし、完成した議事録を会社指定の書式に転記し、複数の管理者へ送って確認を受け、修正した最終版を共有フォルダに保存する手順は、そのまま残っています。
下書きの作成時間だけが短くなっても、承認や情報共有の仕組みが変わらなければ、仕事全体の負担は大きく減らないでしょう。
むしろ、担当者によっては、AIの使い方を新たに覚える必要がある一方、従来の作業も引き続き行わなければならないため、負担が増えたように感じる可能性があります。
実際、日本企業の生成AI活用用途では、議事録やメールの作成補助が多く、回答割合は約7割に達しています。
営業・販売は約6割、社内ヘルプデスクは約5割であり、比較的取り入れやすい業務から利用が広がっていることが分かります。
米国や中国では、研究・商品開発などの領域でも利用が進み、導入効果を実感する回答が比較的多い傾向です。
ただし、各国では企業の事業内容や回答者の構成などが異なるため、利用用途の違いだけで優劣を判断することはできません。
また、86.4%という業務利用率と、27.0%という組織的な取り組みがない割合は、対象条件の異なる設問に基づいています。
両者を単純に差し引き、残りの企業では業務変革が進んでいると判断することも適切ではありません。
本当に確認すべきなのは、AIを使っているかどうかではなく、仕事全体の流れがどう変わったかということです。
誰が情報を入力し、誰がAIの出力を確認し、誰が最終判断を下すのか。こうした役割が整理されていなければ、便利な道具が増えても業務が複雑になるという可能性があります。
生成AIの効果を評価する際には、個人の作業時間だけでなく、部署全体の処理時間や情報共有の負担、成果物の品質まで確認する必要があるでしょう。
学校でのAI利用頻度はOECD加盟国中最下位
生成AIを利用する機会の違いは、学校教育にも表れています。
PISA2025では、学校の勉強にAIを利用する頻度をまとめた指標で、日本は回答したOECD加盟38カ国中38位でした。
調査対象には、学習内容の理解を助けてもらうこと、文章の下書きや要約を行うこと、新しいテーマについて予備的に調べることなど、複数の用途が含まれています。
日本の生徒は主要3分野で高い学力を示した一方、学校でAIを利用する頻度は国際的に低かったのです。
この結果を見ると、日本の生徒は新しい技術の扱いが苦手なのではないかと考える人もいるでしょう。
しかし、利用頻度が低いことを、そのままデジタル能力の低さと結び付けるのは適切ではありません。
同じPISA2025では、ICTを活用しながら新しい知識を獲得し、問題を解決する能力を測る「ラーニング・イン・デジタルワールド」の公表部分で、日本はOECD加盟国中1位でした。
全参加国・地域中でも4位となっており、デジタル環境で課題を解決する力が高いことが示されています。
ただし、2026年9月に公表された結果は、コンピュテーショナルな問題解決能力に関する部分です。
自己調整学習を含む調査全体の結果は2027年に公表される予定であるため、現時点の順位を全領域の最終評価と混同してはいけません。
また、AIの利用頻度が高いほど学力が向上するとも限らないでしょう。
自分で考える前に答えを求めたり、出力された説明を確かめずに受け入れたりすれば、学習の目的が十分に達成されない場合もあります。
一方、AIを使って異なる解法を比較したり、自分の考えの弱点を確認したりすることには、学習を深める可能性があります。
高い基礎能力を持つことと、新しい道具を効果的に活用することは、別々の課題です。
学校でも職場でも、AIを使った回数ではなく、その利用によって考える力や成果がどう変わったかを確認する必要があるでしょう。
AIを思考の検討相手として活用する方法
生成AIの活用を考えるとき、単に答えを作ってもらうという使い方から、もう一歩進めることができます。
例えば、自分の主張をAIに示し、反論や説得力が弱い部分を繰り返し検討する方法です。
相手からどのような疑問が出るか、説明に不足している条件はないか、別の立場から見ても主張が成立するかを確認できます。
一度の質問で結論を出すのではなく、複数回のやり取りを通じて論点を整理すれば、一人では見落としていた問題に気付く可能性があります。
例えば、ある会社で業務改善案を担当者がまとめている場面を考えてみましょう。
担当者は、毎月の集計作業を自動化すれば大幅に時間を短縮できると考えています。しかし、改善案を経営会議へ提出する前に、費用面や現場への影響について説明できるか不安を感じています。
自分では十分に検討したつもりでも、他部署からどのような反対意見が出るのかまでは予想しきれないからです。
そこで、生成AIに改善案を示し、経営者や現場担当者の立場から疑問を挙げてもらう方法が考えられます。
費用の回収期間、導入時の業務負担、システムが停止した場合の対応など、本人が十分に整理できていなかった論点が見つかるかもしれません。
さらに、AIから示された疑問を基に説明を修正し、再び反論を求めることで、提案の弱い部分を段階的に確認できます。
もっとも、AIとの対話を重ねれば、必ず思考力や判断の精度が向上するわけではありません。
AIが示す反論にも誤りや偏りが含まれる場合があり、検討の結果を評価するのは利用者自身です。
また、AIがもっともらしい説明を提示した場合でも、その根拠が正確であるとは限りません。反対意見が十分に出なかったからといって、自分の主張に問題がないと判断することも適切ではないでしょう。
それでも、生成AIを思考の代用品ではなく、考えを検討する相手として使う方法には活用の余地があります。
相手の立場を経営者、現場担当者、顧客などに変えて質問を出してもらえば、一つの提案を複数の視点から考える材料になるでしょう。
ただし、AIが提示した事実や数値は、一次資料などによる確認が必要です。
機密情報や個人情報の取り扱いにも注意し、所属する組織の利用ルールに従わなければなりません。
AIにどこまで任せ、どの部分を人が判断するかを明確にすることが、活用の前提になります。
同じ人でも、適切な道具を使うことで検討できる範囲が広がるという可能性があります。
その力を仕事の成果へ結び付けるには、AIの導入と同時に、人が担う仕事の役割分担を再設計することが重要ではないでしょうか。
理由2 労働市場の硬直性と能力を生かせない人材配置
学歴ミスマッチと技能ミスマッチの違い
日本の労働生産性を考えるもう一つの課題は、育成された能力が、どのような仕事に配置されているかという問題です。
高い能力を身に付けた人でも、その能力を十分に必要としない仕事を担当していれば、教育や経験によって蓄積された人的資本を十分に生かせない場合があります。
OECDの国際成人力調査に基づく分析では、日本の25〜65歳の雇用者の約35%が、現在の仕事に通常求められる水準より高い学歴を持つと分類されています。
OECD平均は23%であり、日本は学歴のミスマッチが比較的多い国の一つです。
この状態は、一般に学歴のオーバークオリフィケーション、または学歴ミスマッチと呼ばれています。
ただし、学歴ミスマッチがある人を、そのまま能力が余っている人と判断することはできません。
大学を卒業していても、仕事に必要な専門的経験や対人能力を新たに学ぶ場合があります。また、学歴だけで仕事の難しさや社会的な価値を決めることも適切ではないでしょう。
実際、同じOECDの分析では、自分の技能が現在の仕事で必要とされる水準を上回ると回答した人の割合は、日本では9%でした。
技能ミスマッチは、本人が仕事に必要な技能との関係をどのように認識しているかを基にした指標です。
したがって、学歴ミスマッチとは測定方法も意味も異なります。
日本では学歴ミスマッチが約35%と高い一方、自分の技能を持て余していると回答した割合は9%と低いという特徴があります。
この組み合わせから、高学歴の人が一様に能力を余らせていると結論づけることはできません。
学校教育で測られる能力と、職場で必要とされる能力が異なることや、本人の自己評価の違いが影響しているという可能性があります。
それでも、日々の仕事で自分の得意なことを十分に使えていないと感じる人にとって、役割を見直す機会は重要でしょう。
例えば、数字の整理が得意な人が、長年データ入力や報告書の作成だけを担当しているとします。
本人は数字の変化から事業の課題を分析する仕事にも関心がありますが、現在の役割では改善案を提案する機会がほとんどありません。
周囲からは仕事が正確な人として信頼されていても、本人は自分の能力をもっと別の形で生かせるのではないかと感じているかもしれません。
この場合、問題は本人の能力が不足していることではなく、その能力を発揮する役割が用意されていないことにあるという可能性があります。
人材育成の成果を高めるには、技能を身に付ける機会と、その技能を実際に使える仕事の両方を考える必要があります。
勤続年数と賃金の結び付きが転職を難しくする
自分の能力をより生かせる仕事が別の会社にあると分かっていても、簡単に転職できるとは限りません。
長年働いた職場で築いてきた処遇や人間関係を手放すことには、現実的な不安が伴います。
住宅ローンの返済があり、子どもの教育費も必要で、親の介護についても考えなければならない。そうした生活上の責任を抱えている人にとって、転職は仕事の内容だけで決められる問題ではないでしょう。
新しい職場で今までと同じ収入を得られるか、経験を十分に評価してもらえるか、職場の人間関係に適応できるかなど、考えるべきことは数多くあります。
そのため、転職をためらう理由を、単に変化を嫌う心理だけで説明するのは適切ではありません。
OECDによる賃金の統計分析では、時間当たり賃金の個人差のうち、勤続年数で説明される割合が、日本では9%でした。
OECD平均は2%であり、日本では勤続年数と賃金の結び付きが比較的強いことを示しています。
ただし、この9%は、勤続年数が増えると給与が9%上昇するという意味ではありません。
賃金のばらつきを複数の要因に分けて分析した際に、勤続年数がどの程度の説明寄与を持つかを示した数字です。
OECDの「日本経済審査2026」でも、日本の平均勤続年数は12.4年と、OECD平均より長い状況が示されています。
勤続10年以上の労働者の割合も46.7%と高く、長期雇用は日本の労働市場の重要な特徴です。
もちろん、長く同じ会社で働くこと自体が問題なのではありません。
仕事への理解が深まり、顧客との信頼関係が築かれ、会社固有の専門知識を蓄積できることには価値があります。
企業にとっても、従業員が長く働く見通しがあれば、人材育成へ継続的に投資しやすくなるでしょう。
一方、賃金や昇進が勤続年数と強く結び付いている場合、別の会社へ移ることで、それまで積み重ねてきた処遇を失う不安が生じます。
新しい職場が自分の経験を十分に評価してくれるか分からないなら、現在の会社に残ることが合理的な選択になる場合もあります。
年功的な賃金制度や従来の雇用慣行が、労働移動への誘因を弱める可能性があるというのが、OECDの指摘です。
もっとも、近年は中途採用の拡大や賃金制度の見直しも進んでおり、日本の雇用制度がすべて固定されたままというわけではありません。
重要なのは、転職する人を増やすこと自体ではなく、経験や技能が適切に評価される選択肢を広げることです。
現在の会社に残って専門性を高める人も、新しい職場へ移って能力を発揮する人も、納得して働き方を選べることが望ましいのではないでしょうか。
企業特殊的人的資本と持ち運べる技能の問題
日本企業では、入社後の実務を通じて能力を育てるOJTが、人材育成の重要な方法として使われてきました。
OJTとは、実際の仕事をしながら知識や技能を身に付ける教育方法です。
職場で必要な作業を経験し、先輩社員から直接教わりながら、少しずつ担当できる仕事を増やしていく方法には、多くの利点があります。
業務の背景や顧客の事情、社内の判断基準など、教科書だけでは理解しにくいことを学べるからです。
ただし、そこで身に付ける能力のすべてが、ほかの会社でも同じように評価されるとは限りません。
特定の会社で使われるシステムの操作方法、独自の承認手順、部署間の調整方法などは、組織の内部では重要でも、別の職場ではそのまま活用できない場合があります。
こうした会社固有の知識や技能は、経済学では「企業特殊的人的資本」と呼ばれています。
例えば、10年以上同じ会社で働き、複雑な社内調整を正確に進められるようになった人が、転職を考えたとします。
その人は、どの部署に相談すれば問題を解決できるかを理解しており、社内の制度や人間関係にも詳しいでしょう。
現在の会社では、その経験が日々の業務を支えています。
ところが、転職活動で自分の能力を説明しようとすると、これまで担当してきた仕事が、会社独自の仕組みに強く依存していることに気付くかもしれません。
本人には豊富な経験があっても、採用する企業がその価値を判断できなければ、経験に見合った処遇を提示しにくくなります。
そこで重要になるのが、会社を移っても利用できる「ポータブルスキル」です。
データ分析、プロジェクト管理、顧客課題の把握、業務改善、専門的な技術などは、業界や職場が変わっても活用できる場合があります。
もっとも、社内調整能力も、会社固有の経験としてしか説明できないわけではありません。
関係者の意見を整理する力、対立する要望を調整する力、合意形成を進める能力として説明できれば、別の企業でも評価される可能性があります。
必要なのは、会社固有の経験を否定することではありません。
その経験を通じて、どのような問題を解決し、どのような能力を身に付け、何を改善したのかを具体的に説明できるようにすることです。
OECDも、企業内の研修が会社固有の技能に偏りすぎると、労働移動や新しい技能需要への対応が難しくなる問題を指摘しています。
社内で役立つ能力を育てながら、社外でも評価される技能を伸ばすことが、働く人の選択肢を広げる方向ではないでしょうか。
企業の新陳代謝と経営資源の再配分が進みにくい問題
企業内の改善だけでは生産性向上に限界がある
労働者が移動しにくいことは、個人のキャリアだけでなく、国全体の生産性にも関係しています。
ある企業が努力を重ねて業務を効率化しても、それだけで産業全体の生産性が十分に高まるとは限りません。
新しい技術や事業に対応できる企業へ、人材や資金が移ることも重要だからです。
OECDの「日本経済審査2026」は、日本の生産性向上が、同じ企業や同じ産業の内部で行われる改善に大きく依存してきたと指摘しています。
一方、企業や産業の間で人材や資金が移動することによる生産性向上への寄与は、長期的に小さかったと分析しています。
時間当たり労働生産性の年平均上昇率も、2000〜2008年の1.2%から、2019〜2024年には0.3%へ低下しました。
この減速には、設備投資によって労働者一人当たりの資本を増やす動きが弱まったことや、生産要素を活用する効率の伸びが低かったことなどが関係していると考えられています。
例えば、新しい技術を活用する企業が事業を拡大しようとしても、必要な専門人材を採用できなければ、商品やサービスを十分に提供できません。
一方、現在の仕事では能力を十分に発揮できない人が、より自分に適した企業へ移る機会を得られなければ、人材の活用方法を変えることも難しくなります。
ここで大切なのは、生産性が低い企業で働く人の能力まで低いと判断しないことです。
設備が古いこと、適切な価格で商品を販売できないこと、経営資源の配分が十分でないことなど、企業側の条件によって生産性が低くなる場合もあります。
本人が努力しても変えられない問題を、働く人だけの責任として扱うことは適切ではありません。
企業内の改善は必要ですが、それと同時に、能力や資金がより有効に使われる仕組みを整えることも重要なのです。
中小企業の生産性が日本経済に与える影響
日本では、中小企業が雇用と付加価値の大きな部分を担っています。
OECDの「日本経済審査2026」によると、日本の中小企業は雇用の約70%、付加価値の約56%を占めています。
雇用割合に比べて付加価値の割合が小さいことは、企業規模による生産性格差を考える材料になります。
特にサービス業では、企業規模による生産性の違いが比較的大きいと指摘されています。
日本の中小企業で働く人のうち、非農業分野では約71%がサービス業に従事しています。
そのため、サービス業における設備投資やデジタル化、価格設定の改善は、国全体の生産性にも関わる問題です。
ただし、中小企業であること自体が、低生産性の原因ではありません。
小規模でも高度な専門技術を持つ会社や、海外市場で競争力を発揮する企業はあります。また、地域の生活を支える事業者には、経済統計だけでは十分に捉えきれない社会的な役割もあるでしょう。
例えば、地域で長年営業してきた小さな店舗が、高齢者の買い物を支え、住民同士が交流する場所にもなっている場合があります。
その店の役割を、単純に従業員一人当たりの売上や付加価値だけで評価することは難しいでしょう。
一方、店舗の経営者が毎日の売上集計や在庫確認に多くの時間を費やしているなら、デジタル技術によって負担を減らせる可能性があります。
重要なのは、企業規模だけで価値を判断することではなく、改善や成長に必要な資金、人材、技術へアクセスできる環境が整っているかという点です。
中小企業への支援でも、現在の事業を維持することだけを目的とせず、設備更新や事業転換を進められる仕組みが必要だと考えられています。
開業率と廃業率が示す産業の新陳代謝
企業の新陳代謝とは、新しい企業が市場へ参入し、既存企業が成長や再編を進め、事業の継続が難しい企業が撤退する動きを指します。
OECDの2026年の分析では、日本の企業の参入率と退出率は、米国のおよそ半分の水準にあります。
また、生産性が低い状態にある企業が、経営改善や市場退出によってその状態を脱する確率も、米国より低いという分析です。
新しい企業が参入しにくければ、新技術や新しい事業モデルが広がる機会は限られます。
成長企業が必要な人材や資金を確保できなければ、新しい商品やサービスを提供する能力も十分に拡大できないでしょう。
一方、業績が厳しい企業にも、事業再編や経営改善によって競争力を回復する余地があります。
企業の退出を一律に促すのではなく、再生できる事業と、継続が難しい事業を適切に見極めることが必要です。
その問題を考える材料として、いわゆるゾンビ企業の割合があります。
帝国データバンクの推計では、一定の基準で定義されたゾンビ企業の割合は、2019年度の10.1%から2024年度には14.3%へ上昇しました。
この調査でいうゾンビ企業とは、設立10年以上で、利払いなどを賄う収益力を示すインタレスト・カバレッジ・レシオ(ICR)が3年連続で1未満となった企業です。
2024年度の該当企業数は、全国で約21万社と推計されています。
ただし、割合は2022年度の18.2%をピークに、2024年度まで2年連続で低下しています。
2019年度より高い水準にある一方、直近では改善も確認されているため、状況が一方向に悪化し続けていると説明するのは適切ではありません。
また、この分類に該当する企業が、すべて事業の継続を断念すべき会社という意味でもありません。
金融支援や事業再編によって収益力を回復できる場合もあり、そこで働く人の生活や地域経済への影響も考える必要があります。
それでも、収益力の低い事業に人材や資金が固定され続けると、成長企業がそれらを確保しにくくなるという可能性があります。
このように、限られた経営資源が既存の事業へ向かうことで、ほかの企業の投資や成長の余地が狭くなる現象は、経済学でクラウディング・アウトと呼ばれる問題の一つです。
重要なのは、企業の再生や事業転換を支援しながら、働く人が新しい仕事へ移れる条件も整えることです。
企業の存続だけでなく、そこで働く人が今後も生活を維持し、能力を発揮できるかという視点が欠かせません。
生産性分解モデルで理解する資源再配分の役割
企業内部の改善と、企業間の人材移動が産業全体の生産性にどう関係するかは、経済学の分解モデルを使うと整理できます。
代表的な方法の一つが、フォスター・ハルティワンガー・クリザンによるFHK生産性分解モデルです。
このモデルでは、産業全体の集計労働生産性の変化を、企業内部での改善、企業間の資源移動、新規企業の参入、既存企業の退出などに分けて捉えます。
産業全体の生産性をP、企業ごとの生産性をp、企業の労働シェアをθとすると、分解式は次のように表されます。
ここで、Cは存続企業、Nは新規参入企業、Xは退出企業を表します。Δは前期からの変化を示し、θは各企業が産業全体の労働に占める割合です。
式は複雑に見えますが、基本的な考え方は四つに分けられます。
第1項の企業内効果
存続している企業が、それぞれの内部で生産性を改善することによる効果です。
新しい設備の導入、業務手順の見直し、従業員の技能向上などによって、同じ労働投入から生み出せる付加価値が増える場合が関係します。
日々の職場で行われる業務改善は、この効果を高める取り組みの一つです。
第2項の企業間再配分効果
もともと生産性が高い企業の労働シェアが増えることによる効果です。
高い付加価値を生み出す企業が人材を採用し、事業を拡大できれば、産業全体の生産性も変化します。
能力を発揮できる企業へ人が移動することは、この効果が生じる経路の一つになります。
第3項の交差効果
企業の生産性の変化と、労働シェアの変化が同時に生じることによる効果です。
例えば、生産性を高めた企業が雇用も拡大する場合には、その二つの変化の組み合わせが産業全体の集計値に影響します。
単に生産性の高い企業が大きくなることだけでなく、企業自身の改善と成長がどのように結び付くかも重要なのです。
第4項と第5項の参入・退出効果
新しい企業が市場へ参入することと、既存企業が退出することによって生じる変化です。
新規企業や退出企業の生産性が、産業平均と比較してどの位置にあるかによって、その寄与が決まります。
したがって、新規参入が増えれば必ず生産性が向上するわけでも、企業が退出すれば必ず改善するわけでもありません。
この分解で重要なのは、産業全体の生産性が、個々の会社の内部改善だけで決まるわけではないという点です。
すべての企業が少しずつ仕事を効率化していても、生産性の高い企業が事業規模を拡大できなければ、産業全体の改善は限定される場合があります。
反対に、高い生産性を持つ企業へ人材が移り、新しい事業が成長すれば、既存企業の内部改善とは別の経路でも集計生産性が高まります。
ただし、FHKは生産性の変化を会計的に分解する枠組みであり、それだけで資源移動の因果効果を証明するものではありません。
また、ここで扱う労働生産性と、資本投入も考慮する全要素生産性は異なる指標です。
米国と日本の違いを考える場合も、各項の寄与は、対象期間、産業、企業データの範囲によって変化します。
そのうえでOECDは、日本では企業内改善が集計生産性の伸びを主に支えてきた一方、企業や産業をまたぐ資源再配分の寄与が継続して小さかったと指摘しています。
現場の努力をさらに増やすことだけでは、国全体の生産性向上に限界があるという見方を支える分析です。
個々の企業が改善を続けることと、より高い付加価値を生み出せる場所へ人材や資金が移動することを、両立させる必要があります。
高い能力が構造的な問題を見えにくくする可能性
現場力の高さが改善を遅らせる悪循環
ここまで見てきた二つの課題は、互いに独立しているわけではありません。
IT人材が事業会社の内部に少なければ、仕事の仕組みを改善できる人材を確保しにくくなります。
業務改善が進まなければ、従来の手作業を担当者が抱え続けることになるでしょう。
そして、担当者が優秀であるほど、不便な仕組みでも仕事を完成させられます。
その結果、業務上の問題が表面化せず、改善のための投資が後回しになるという可能性があります。
例えば、毎月の集計作業が増え続けている職場を考えてみましょう。
担当者は残業しながら資料を完成させていますが、経営会議には予定どおり正確な数字が提出されます。
経営者は、その数字を基に判断できているため、業務プロセスに大きな問題はないと受け止めているかもしれません。
一方、担当者は、改善を申し出ることで周囲に負担をかけたり、自分の仕事が遅いと思われたりすることを心配している可能性があります。
周囲から信頼されてきた人ほど、仕事をうまく回せていないと受け止められることを避けたいと感じる場合もあるでしょう。
こうして、仕事が増えても個人の努力で対応する状態が続いてしまいます。
この構造は「現場力の罠」と捉えることができます。
高い実務能力があるからこそ、仕組みの不便さを補えてしまい、その結果として改善の必要性が見えにくくなるという考え方です。
ただし、これが日本の労働生産性の低さをすべて説明する、実証済みの単一原因というわけではありません。
高い実務能力が業務改革を遅らせる可能性を示す、一つの説明仮説です。
それでも、個人の努力で仕組みの問題を補い続けることには限界があります。
新しい仕事が増えるたびに担当者が工夫し、残業や追加の確認作業で対応しているなら、その成果を評価するだけでなく、負担が増えている原因も調べる必要があります。
本来、優秀な人材ほど、判断や改善、新しい価値の創出に能力を使えることが望ましいでしょう。
その人でなければ処理できない定型作業を増やすことが、能力を十分に生かす方法とは限りません。
人材の固定化と技術投資の不足が結び付く理由
人材が移動しにくいことは、デジタル化の進み方にも影響します。
事業会社がIT専門人材を採用しようとしても、必要な技能を持つ人が移動しにくければ、社内に技術や知識を蓄積することは容易ではありません。
さらに、従来の人事制度がIT専門職の役割や市場価値を適切に評価できなければ、採用や育成が難しくなるという可能性があります。
内閣府の経済財政白書も、従来の採用や人事の仕組みが、ユーザー企業でのIT専門人材の確保や育成を難しくする問題を取り上げています。
社内に専門人材が少ないために改善が進まず、改善が進まないために古い仕事が残るという循環が生まれるかもしれません。
一方、業務を変えようとする企業が増えれば、データ分析やシステム設計などの技能を持つ人材への需要も高まります。
そうした専門性が適切に評価されるようになれば、働く人が学び直しや職務変更に取り組む動機にもつながるでしょう。
新しい技能を学んでも使う機会がなければ、学習への意欲を維持することは難しくなります。
反対に、学んだことを使える仕事があり、その成果が評価されるなら、時間をかけて技能を身に付ける意味を実感しやすくなるはずです。
つまり、デジタル投資と人材配置は、互いに影響し合う課題です。
技術だけを導入しても、人がそれを活用できなければ成果は限定されます。高い能力を持つ人がいても、適切な設備や役割がなければ、その力を十分に発揮することは難しいでしょう。
能力を高める取り組みと、能力を生かせる仕組みを整える取り組みを、同時に進める必要があるのではないでしょうか。
職場で始める労働生産性の改善方法
毎月繰り返す手作業を一つ選ぶ
国全体の生産性を改善するには、企業の制度や労働市場の改革が必要です。
しかし、すべての制度が変わるまで、職場で何もできないわけではありません。
最初に取り組みやすいのは、毎月または毎週繰り返している手作業を、一つ選んで見直すことです。
集計、転記、日報の作成、問い合わせへの返信、資料の下書きなど、日々の仕事の中には、改善を検討できる作業が存在する場合があります。
例えば、月次報告書の作成に時間がかかっているなら、単に作業時間を記録するだけでなく、その内訳を調べてみてください。
データの収集、形式の修正、数字の照合、報告書の作成、内容の確認などに分ければ、どの部分に負担が集中しているかが見えてきます。
そのうえで、どの作業に人の判断が必要なのかを考えます。
決められた形式にデータを整える作業なら、表計算ソフトの機能やシステム連携によって自動化できるかもしれません。
一方、売上が変動した理由や、今後どのような対応が必要かを考える部分には、人の判断が求められるでしょう。
最初から業務全体を変える必要はありません。
長年続いてきた仕事を一度に変更しようとすれば、担当者はミスや混乱が起きることを不安に感じるかもしれません。
だからこそ、一つの作業を小さな範囲で試し、問題がないことを確認しながら対象を広げる方法が現実的です。
業務を知る担当者と技術を理解する人が協力すれば、単に作業を速くするだけでなく、不要な手順そのものを減らせる可能性もあります。
重要なのは、その仕事がなぜ必要なのか、作成した情報が誰の判断に役立っているのかまで確認することです。
作業時間と品質を同時に測定する
業務改善の成果を判断するには、変更前と変更後の状態を比較する必要があります。
例えば、毎月6時間かかっていた集計作業が、システムを利用することで3時間に短縮されたとします。
担当者にとっては大きな改善に感じられるでしょう。
しかし、自動処理の結果を修正する作業が増え、別の担当者が追加で2時間確認しているなら、部署全体では想定したほどの時間削減になっていないかもしれません。
そのため、担当者一人の作業時間だけでなく、誤りの発生率、修正に必要な時間、確認の負担なども記録する必要があります。
さらに、成果物を受け取る人にとって使いやすくなったかという視点も重要です。
報告書の作成時間が短くなっても、経営者が数字の意味を理解できず、追加の説明を何度も求めているなら、情報提供の仕方に改善余地があります。
反対に、重要な数字の変化とその理由が分かりやすく整理されていれば、資料の作成時間が大きく変わらなくても、意思決定を支える価値が高まる場合があります。
生産性改善では、作業時間、成果物の品質、受け取る人の使いやすさを合わせて評価することが重要です。
また、短縮された時間を何に使ったかも確認する必要があります。
単に作業が速くなったという結果だけでなく、その変化によって顧客対応や分析、改善提案にどの程度時間を使えるようになったかを考えることで、取り組みの意味がより明確になるでしょう。
デジタル技術とAIを仕事に合わせて使い分ける
業務改善を考える際、すべての仕事に生成AIを使う必要はありません。
決まった計算や数値の転記には、表計算ソフトの機能や既存システムの連携が適している場合があります。
文章の下書き、情報の整理、論点の検討などでは、生成AIが役立つ可能性があります。
一方、判断の根拠を説明する必要がある業務では、AIの出力を人が確認する体制が欠かせません。
仕事の性質に応じて道具を選び、人が担う役割を整理することが大切です。
月次データ集計と報告書作成
各部署から届くデータの形式を修正し、表計算ソフトへ手入力している場合は、API連携やBIツールなどを検討できます。
BIツールとは、データを集計・分析し、経営や業務の判断に利用しやすい形で示す仕組みです。
定型的な集計を自動化できれば、担当者は数字の変化を調べたり、事業改善の提案を考えたりする時間を確保しやすくなります。
長年、資料を完成させることに追われてきた担当者にとって、数字の意味を考える時間を持てるようになることは、仕事への向き合い方を変えるきっかけになるかもしれません。
顧客対応と問い合わせ管理
定型的な問い合わせへの返信や日程調整では、FAQの自動応答、返信文の下書き生成、スケジュール調整機能などを利用できます。
ただし、顧客の事情が複雑な場合や、説明によって不安を解消する必要がある場合には、人による対応が重要です。
例えば、商品の利用方法に困っている顧客が、単に操作手順を知りたいだけでなく、購入した商品を使いこなせないことに不安を感じている場合があります。
そのとき必要なのは、決められた説明を速く返すことだけではありません。
相手が何に困り、どこで理解が止まっているのかを把握することも求められるでしょう。
定型的な返信を自動化できれば、担当者はそうした個別の事情を理解し、適切な提案を考える時間を確保しやすくなります。
法務とコンプライアンス点検
契約書の条文照合や過去の規程との比較では、差分検出や契約レビューを補助するシステムが役立つ場合があります。
一方、個別の契約にどのような法的・事業上のリスクがあるかを判断するには、専門的な確認が必要です。
AIによる見落としや誤判定が重大な問題につながる可能性もあるため、最終的な判断と責任の所在を明確にしなければなりません。
道具に任せられる確認作業を減らすことで、専門家が重要な判断に集中しやすくなるという考え方が必要です。
店舗と小売現場の管理業務
売上や在庫の確認、日報作成などに時間を使っている店舗では、クラウドPOSや需要予測システムなどを検討できます。
在庫管理の負担が減れば、スタッフは商品説明や売場の改善、顧客への対応に時間を使いやすくなるでしょう。
もっとも、接客時間を長くすること自体が目的ではありません。
顧客が納得して商品を選べたか、必要な情報を得られたかという観点で、改善の成果を確認する必要があります。
これらの業務に共通するのは、機械に任せる部分と、人が判断する部分を区別する考え方です。
道具を導入したこと自体を成果とせず、仕事の質や利用者に届く価値がどう変わったかを確かめることが重要になります。
削減した時間を高付加価値業務へ振り向ける
業務改善によって時間が生まれても、その時間に別の定型作業を詰め込むだけでは、組織全体の付加価値が十分に増えない場合があります。
例えば、月次報告書の作成時間を短縮できた担当者が、空いた時間を使って別の報告書をさらに多く作るようになったとします。
処理件数は増えますが、そもそも報告書の数を増やす必要があるのかは、別に考えなければなりません。
一方、空いた時間を使って売上の変化を分析し、利益率の低い商品や顧客の不満につながる問題を発見できれば、事業全体の改善に貢献できる可能性があります。
重要なのは、作業時間を短縮することから、付加価値を増やす仕事へ転換することです。
顧客への提案、事業データの分析、新しい施策の検証、商品やサービスの改善などが、その候補になるでしょう。
ただし、定型作業を減らしたからといって、すべての人を高度な分析業務へ移せばよいわけではありません。
本人の希望や適性、必要な技能を踏まえ、能力を発揮できる役割を選ぶことが重要です。
また、削減した時間を休息や負担軽減に振り向けることにも意味があります。
長時間労働や過重な負担を減らすことは、働く人の健康を守り、仕事を長く続けられる環境を支えるからです。
効率化によって時間が生まれても、その分だけ新しい仕事を増やされるのであれば、担当者が改善に前向きになれない場合もあるでしょう。
生産性の向上を、従業員がさらに多くの仕事を引き受けるための手段だけにしないことが大切です。
能力を生かす人材配置と評価制度の見直し
現在の仕事で使っている技能を整理する
人材配置を見直すには、現在の仕事でどのような能力を使っているのかを確認する必要があります。
単に担当業務を並べるだけでなく、その仕事で発揮している技能と、十分に使えていない技能を分けて考えることが重要です。
例えば、毎月の集計を正確に行っている人には、数字の処理能力に加え、誤りを発見する注意力や、仕事を計画的に進める能力があるかもしれません。
さらに、数字の変化から課題を見つけることが得意なら、分析や改善提案の仕事でも能力を発揮できる可能性があります。
その場合、現在の仕事をすべて手放さなくても、担当範囲を少し広げる方法が考えられます。
報告書の作成に加えて、毎月一つ改善案を示す機会を設けることから始めてもよいでしょう。
こうした役割の変更は、転職をしなくても実行できます。
ただし、新しい仕事を任せる際には、従来の作業をどのように減らすかも同時に考えなければなりません。
既存の業務を残したまま新しい役割だけを増やせば、能力を生かす機会が、かえって負担の増加につながる可能性があります。
本人が成長できる機会を望んでいても、日常業務が忙しすぎれば、新しい仕事に取り組む余裕は生まれません。
役割を見直す際には、本人の技能だけでなく、仕事の引き継ぎや自動化の可能性も含めて検討することが重要です。
職務と成果に基づく評価制度への移行
企業の評価制度についても、勤続年数だけでなく、仕事の内容や成果を適切に評価できる仕組みが求められます。
OECDの「日本経済審査2026」は、年功的な賃金制度から、職務や成果を重視した賃金制度へ近づける改革を勧めています。
職務給や役割給とは、担当する仕事の責任や必要な専門性などを基に処遇を決める制度です。
こうした制度を機能させるには、どの仕事にどのような能力が必要で、何を成果として評価するかを明確にしなければなりません。
例えば、営業職では売上額だけでなく、顧客の課題を把握する能力や、長期的な関係構築への貢献も評価対象として考えられます。
管理部門では、処理件数やミスの少なさに加えて、手戻りを減らしたことや、ほかの部署が判断しやすい情報を提供したことも成果になり得るでしょう。
ただし、数値化しやすい成果だけを高く評価すれば、協力や人材育成、品質の維持などが軽視されるおそれもあります。
また、職務給への移行によって処遇がどう変わるか分からなければ、従業員が不安を感じるのは自然なことです。
長年働いてきた人ほど、自分が積み重ねてきた経験を十分に評価してもらえるのかと心配するかもしれません。
そのため、仕事の内容や評価基準を十分に共有し、制度変更の目的を説明する必要があります。
年功的な制度を見直す目的は、長く働いてきた人の経験を軽視することではありません。
その経験がどのような能力や成果につながっているかを、より明確に評価することです。
従業員が納得できる評価制度を整えることは、社内異動や中途採用を通じた人材活用の改善にもつながるのではないでしょうか。
リスキリングとポータブルスキルの形成
仕事の役割を変える際には、新しい技能を身に付ける機会も必要です。
リスキリングとは、仕事の変化に対応するため、新たな職務や業務に必要な技能を学ぶことを指します。
データ分析、デジタル技術の利用、プロジェクト管理など、実際の業務と結び付いた学習が考えられます。
ただし、研修の受講回数を増やすだけで、技能が仕事で使われるようになるとは限りません。
例えば、データ分析の研修を受けても、職場で分析を行う機会がなければ、学んだ内容を実践することは難しくなります。
本人が時間を使って学習しても、仕事で活用できなければ、何のために学んでいるのかと疑問を感じる場合もあるでしょう。
一方、実際の業務データを使って改善案を検討する機会があれば、学習と仕事の成果を結び付けやすくなります。
内閣府の経済財政白書でも、日本ではIT人材の自主的な学習意欲が必ずしも低いわけではない一方、企業が提供する研修機会や、その効果に課題があることが指摘されています。
重要なのは、学ぶ人の努力だけに任せず、身に付けた技能を使える役割まで用意することです。
また、働く人にとっては、現在の仕事で得た経験を、社外でも理解される形に整理することが役立ちます。
採用情報に示された業務や必要な技能と照らし合わせ、自分の経験を具体的な成果として説明できるかを確かめる方法があります。
社内異動を考える場合も、異動先で何が求められるかを確認してから、学ぶ内容を選ぶとよいでしょう。
例えば、資料作成の経験を説明する際には、何件の資料を作ったかだけでなく、情報の整理によって確認時間をどれだけ減らしたかを示す方法があります。
改善内容や成果を具体的に伝えることで、同じ職種だけでなく、別の仕事に応募する際にも経験を評価してもらいやすくなる可能性があります。
会社の内部で培った経験を、ほかの職場でも通用する能力として説明できるようにすることが、人材の移動を支える一つの条件です。
転職を選べる制度と生活を支える仕組み
労働移動を促す政策では、働く人に転職を求めるだけでは十分ではありません。
新しい職場へ移ることで生活が不安定になる可能性が大きければ、本人が移動をためらうことには合理的な理由があります。
特に、家族の生活を支えている人にとって、収入の変化や失業期間の発生は、簡単に受け入れられる問題ではないでしょう。
転職によって能力を生かせる可能性があっても、生活の見通しが立たなければ、現在の職場に残ることを選ぶ場合があります。
そのため、技能を評価する仕組みと同時に、失業時の支援や職業訓練、移行期間の生活を支える制度が必要です。
OECDの「日本経済審査2026」では、職務や成果を重視した賃金制度のほか、中途採用や成人学習の充実、労働市場の柔軟性を高める改革が論点になっています。
また、日本の退職所得控除は勤続年数に応じて計算され、20年を超える部分では1年当たりの控除額が大きくなります。
原則として、勤続20年以下の部分は1年当たり40万円、20年を超える部分は1年当たり70万円を基に計算する仕組みです。
ただし、過去に受け取った退職金などによって計算が異なる場合もあるため、個別の税負担を勤続年数だけで判断することはできません。
長期勤続者への税制上の優遇が、転職の判断にどの程度影響しているかは慎重に検討する必要がありますが、制度の見直しは労働移動を支える政策の一つとして取り上げられています。
さらに、企業が外部人材を採用する際には、前の会社での役職や勤続年数だけでなく、実際の技能や成果を評価する姿勢が求められます。
一方、現在の会社に残る人にも、希望や適性に応じて社内で役割を変えられる機会が必要でしょう。
転職だけを正解にする必要はありません。
長期雇用の安定性を生かす人もいれば、新しい職場で専門性を発揮する人もいます。
どちらの選択にも納得できる条件を整えることが、能力を生かす労働市場につながります。
日本の労働生産性を高めるために必要な構造改革
企業が取り組むべき業務改革と人材投資
企業が生産性を高める際には、設備投資と人材育成を別々に考えないことが重要です。
新しいシステムを購入しても、仕事の進め方を変える人材がいなければ、導入効果は限定されます。
反対に、従業員が高い能力を持っていても、適切な設備や裁量がなければ、その力を十分に生かすことは難しいでしょう。
そのため、企業には、業務の棚卸し、デジタル技術の活用、組織内の役割分担、評価制度の見直しを組み合わせることが求められます。
特に重要なのは、業務を理解する人と技術を理解する人が、継続的に協力できる体制です。
改善のたびに大規模な投資を行うのではなく、日常の小さな不便を発見し、試しながら修正できる環境を整えることが望ましいでしょう。
また、現場の担当者が改善を提案したとき、その声を単なる不満として扱わない姿勢も必要です。
長年同じ仕事を続けてきた人ほど、不便な手順が残っている理由や、変更によって生じる問題を理解している場合があります。
その知識を生かすことで、単に新しい道具を導入するだけでなく、実際の業務に合った改善を進めやすくなるでしょう。
さらに、改善によって生まれた時間をどのような仕事へ振り向けるかも、経営上の判断です。
単に人件費を減らすことだけを目標にすると、顧客対応の品質や、将来の事業を育てる活動が軽視される可能性があります。
効率化と付加価値の創出を同時に考えることが、持続的な生産性向上につながるのではないでしょうか。
国が整えるべき労働移動と企業成長の条件
国全体の生産性を高めるには、企業内部の努力に加え、成長できる企業へ資金や人材が届く環境が必要です。
起業や新規参入を妨げる制度上の負担を減らし、成長企業が資金調達しやすい仕組みを整えることが重要になります。
同時に、事業の継続が難しい企業については、経営改善や事業再編を支援し、必要に応じて円滑に事業を整理できる制度も求められます。
ただし、企業の退出を進めることだけを目的にすれば、地域の雇用や住民の生活に大きな影響が生じるおそれもあるでしょう。
長年勤めてきた会社が事業を縮小することになれば、そこで働く人は収入だけでなく、仕事を通じて築いてきた人間関係や生活の見通しも失う可能性があります。
だからこそ、企業の新陳代謝を進める政策には、働く人が新しい仕事へ移れるようにする支援が欠かせません。
職業訓練や再就職支援を整え、身に付けた技能が別の職場でも評価される環境をつくることが重要です。
OECDの「日本経済審査2026」も、企業の新陳代謝を高めることと、デジタル化、イノベーション、人材育成を組み合わせる必要性を指摘しています。
さらに、女性や高齢者、非正規雇用の労働者などが、質の高い仕事や学習機会にアクセスしやすくすることも重要な課題です。
人手不足が進む日本では、すでに働いている人の能力を十分に生かすことが、将来の経済活動を支える条件になります。
人口構造の変化を考えても、限られた人材へ仕事を集中させるのではなく、一人ひとりが能力を発揮できる仕組みを整える必要があります。
個人が今日から始められる小さな改善
制度改革や大規模な設備投資には時間がかかりますが、日々の仕事を見直すことは、比較的小さな範囲から始められます。
まず、今週行った仕事の中から、同じ内容を繰り返している作業を一つ選んでみてください。
その作業に何分かかり、どの部分で自分の判断が必要だったのかを確認します。
さらに、作業を減らした場合に、品質や周囲の仕事へどのような影響が出るかを考えてみましょう。
次に、利用が認められている道具を使い、作業の一部だけを改善します。
例えば、表計算ソフトの機能を使って転記を減らす方法や、生成AIで文章の下書きを補助する方法を試すことができます。
ただし、機密情報や個人情報を含む業務では、会社のルールを確認してから利用する必要があります。
改善を試した後は、作業時間がどれだけ変わったかを記録してください。
同時に、確認や修正の負担が増えていないか、成果物を受け取る人が使いやすくなったかも確かめます。
さらに、空いた時間を何に使うかを考えることが重要です。
顧客への説明を丁寧にすること、業務上の問題を分析すること、新しい提案を検討することなど、自分の能力をより生かせる仕事へ少しずつ振り向けられるかもしれません。
もちろん、最初から改善がうまくいくとは限りません。
使った道具が仕事に合っていなかったり、確認手順が不足していたりする場合もあります。
それでも、何が原因で期待した結果にならなかったのかを記録しておけば、次の変更に役立ちます。
小さな実践を繰り返すことは、自分の仕事を見直すだけでなく、組織へ改善を提案する際の具体的な材料にもなるでしょう。
まとめ
日本はPISA2025や国際成人力調査で高い基礎能力を示す一方、2024年の時間当たり労働生産性は、OECD加盟38カ国中28位にとどまっています。
この隔たりを考える際に重要なのは、働く人の能力だけでなく、その能力を経済的な付加価値へ結び付ける仕事の仕組みです。
本記事で取り上げた二つの構造的課題は、道具に任せられる作業を人の努力で処理し続ける業務構造と、人材や資金が、より能力を生かせる場所へ移動しにくい仕組みにあります。
ただし、この二つだけで日本の労働生産性の低さをすべて説明できるわけではありません。
設備投資、産業構成、価格設定、経営能力など、ほかの要因も合わせて検討する必要があります。
それでも、職場で繰り返している手作業を一つ見直し、時間と品質の変化を確認することは、身近なところから始められる改善です。
そのうえで、生まれた時間をどのような仕事に使うかを考え、自分の技能を発揮できる役割を探すことにも意味があります。
これまで責任感を持って仕事を続けてきた人にとって、従来の手順を見直すことは、簡単な判断ではないかもしれません。
慣れた方法を変えることへの不安や、周囲への影響を心配する気持ちもあるでしょう。
しかし、仕事の仕組みを変えることは、これまで積み重ねてきた努力や経験を否定することではありません。
むしろ、その経験を使って不要な作業を見つけ、より価値のある仕事へ能力を振り向けることにつながります。
高い基礎能力を育てるには長い年月が必要ですが、すでにある能力を生かす仕事の仕組みは、今の職場からでも少しずつ変えられます。
日本の生産性を高める道筋は、働く人にさらに努力を求めることだけではありません。
人が持つ能力を尊重し、その力を適切な道具と仕事に結び付けることが、持続的な改善への出発点になるでしょう。
参考資料
学力と成人の技能
文部科学省・国立教育政策研究所「PISA2025のポイント」
文部科学省・国立教育政策研究所「OECD国際成人力調査 第2回調査のポイント」
労働生産性とデジタル化
内閣府「2022年度経済財政白書 デジタル化を進める上での課題」
労働市場と企業の構造改革
帝国データバンク「ゾンビ企業の現状分析 2026年1月最新版」
米国国勢調査局「Aggregate Productivity Growth: Lessons From Microeconomic Evidence」