誰かが困っているのを見て、自分には直接の得がなくても手を差し伸べることがあります。一方で、以前助けてもらった相手が困っていると、「あのとき助けてもらったから、今度はこちらが力になりたい」と感じることもあるでしょう。どちらも結果として他人の利益につながるため、表面だけを見ると同じ「親切」に見えますが、本人が何を大切に感じ、何に反応して行動したのかまでたどると、心理的な背景は同じではありません。
一般に「利他性バイアス」と「返報性バイアス」の違いを調べると、前者は見返りを求めない行動、後者はお返しを求める行動という説明を見かけることがあります。しかし、この分け方だけでは十分ではありません。利他性では、他者の利益や幸福を本人がどの程度自分の意思決定へ組み込んでいるかが重要になり、返報性では、相手から先に受けた好意や敵意などによって自分の反応が変化するという条件付きの性質が重要になるからです。
また、学術研究では「利他性」「利他的選好」「純粋な利他性」「ウォーム・グロー」「返報性」などの表現が主に用いられており、「利他性バイアス」と「返報性バイアス」が対になる標準的な認知バイアス名として一貫して定義されているわけではありません。英語の altruism bias についても、本記事で扱う他者志向の傾向とは異なる意味で使われる研究があります。
そこで本記事では、検索時に使われやすい「利他性バイアス」「返報性バイアス」という言葉を入口として残しながら、内容そのものは社会科学で研究されている利他性と返報性に沿って整理します。単に言葉の違いを覚えるのではなく、「なぜその人はそうしたくなったのか」まで考えられるようになることを目指します。
利他性バイアスと返報性バイアスの違い
本記事で便宜上「利他性バイアス」と呼ぶものは、自分自身の利益だけではなく、他者の利益や幸福にも価値を置いて意思決定する傾向です。
これに対して「返報性バイアス」と呼ぶものは、相手から受けた行為に応じて、自分も相手への態度や行動を変える返報性を指します。
ここで注意したいのは、本記事で利他性との比較に使う返報性は、主として「親切にしてもらったので、自分も相手へ親切で返したい」という正の返報性だという点です。返報性には、不公正な扱いや敵意に対して制裁的に応じる負の返報性もあり、経済学では契約や社会規範、協力行動などに関係する重要な性質として研究されています。
| 比較項目 | 本記事でいう利他性バイアス | 本記事でいう返報性バイアス |
|---|---|---|
| 学術研究で近い表現 | 利他性、利他的選好、純粋な利他性、ウォーム・グローなど | 返報性、正の返報性、負の返報性など |
| 主な着眼点 | 他者の利益を自分の意思決定へ組み込む | 相手の先行行為に応じて自分の反応が変わる |
| 正の行動が生じやすい状況 | 困っている人を見た、自分が役に立てると感じた | 相手から親切や援助、贈り物などを受けた |
| 直接的な返礼 | 必須ではない | 正の返報性では先行する好意が重要になる |
| 心情の例 | 助けたい、放っておけない、役に立ちたい | 恩を返したい、受けたままでは申し訳ない |
| 代表的な場面 | 匿名寄付、見知らぬ人への手助け | 贈り物への返礼、以前助けてくれた人への援助 |
| 注意点 | 心理的満足や承認欲求が重なる場合もある | 打算だけでなく感謝や義理から生じる場合もある |
ある同僚が大量の仕事を抱え、明らかに困っている場面を考えてみましょう。その姿を見た人が「自分には少し余裕があるから、ここだけでも手伝おう」と感じたのであれば、現在の相手の負担や利益が意思決定の中へ入っており、利他的な動機で説明しやすくなります。
一方、その同僚には以前、自分が締め切りに追われたときに助けてもらった経験があり、「あのとき本当に助かったから、今度はこちらが支えたい」と感じたのであれば、相手の先行する援助が現在の行動へ影響しているため、正の返報性が強く関係しているでしょう。
外から見えるのは、どちらも「同僚の仕事を手伝う」という同じ行動です。それでも、一方では相手の利益への関心が行動を後押しし、もう一方では先に受けた親切が現在の反応を変えています。
そのため、利他性と返報性を理解するときには、行動そのものを分類するよりも、他者の利益への関心と、相手の先行行為への反応を分けて考えることが重要になります。
利他性バイアスとは
「利他性バイアス」という呼び方を本記事では便宜上使いますが、ここで扱う中心的な内容は、研究上の利他性や利他的選好です。
利他性とは、自分の利益だけを重視するのではなく、他者の利益や幸福にも価値を置く性質を指します。自分のお金が減ったり、時間を使ったり、多少の手間が増えたりしても、相手の状態が良くなることに意味を感じて行動する場合があります。
相手から何も受けていなくても助ける
電車で座っているとき、目の前に足元のおぼつかない高齢者が立った場面を考えてみてください。
自分も一日働いたあとで疲れており、本音ではそのまま座っていたい。それでも相手の様子を見ているうちに、「自分よりこの人が座ったほうがよさそうだ」と感じ、少し迷った末に席を立つことがあります。
その人とは初対面で、以前何かをしてもらったわけではありません。次の駅で別れれば、今後再会する可能性も高くなく、席を譲ったことへのお返しを後日受けるとも考えにくいでしょう。
それでも自分の席を差し出すのであれば、少なくとも「以前その人から親切にされたので返した」という直接的な正の返報性だけでは説明できません。自分の疲労や快適さだけではなく、目の前にいる相手の身体的な負担も判断材料になっているからです。
匿名の寄付にも似た構造があります。支援を受ける人が自分の名前を知ることもなく、感謝の言葉が直接返ってくる可能性もないとしても、「少しでも役に立つなら」と考えてお金を差し出す人はいます。
こうした場面では、相手から先に受けた好意への返礼ではなく、他者の状態を良くすることそのものへの関心が行動に含まれています。
純粋な利他性とウォーム・グロー
ただし、利他的な行動を「本人には一切の喜びが生じない完全な自己犠牲」と考える必要はありません。
行動経済学では、他者の効用が高まること自体に価値を置く純粋な利他性と、寄付や援助をした行為そのものから本人が満足を得るウォーム・グローなど、異なる利他的選好が研究されています。日本の看護師を対象とした研究でも、純粋な利他性とウォーム・グローは区別して扱われています。
ある人が災害支援へ寄付し、被災した人の生活が少しでも改善したと知って「役に立ててよかった」と感じるのであれば、他者の状態への関心が表れています。一方で、「寄付できたことで、自分も社会の役に立てた気がして少し心が温かくなった」と感じる人もいるでしょう。
本人が満足感を得たからといって、直ちに「結局は自分のためだった」と結論づける必要はありません。他者の幸福を願うことと、その行為を通じて自分も満足することは、同時に存在できるからです。
利他性を理解するときに重要なのは、本人が完全に無欲だったかを判定することではなく、他者の利益がその人の意思決定へどのような形で組み込まれていたかを見ることです。
利他性と承認欲求は同じではない
利他的な行動には、「周囲からよく思われたい」という承認への欲求が重なる場合もあります。
誰にも知られない状態で寄付する場合と、自分の名前が寄付者として広く知られる場合とでは、本人の感じ方が変わることもあるでしょう。「困っている人を助けたい」という気持ちが本当にあったとしても、それと同時に「親切な人だと思われたらうれしい」と感じる可能性があります。
しかし、承認欲求が少しでも含まれていれば、相手を助けたい気持ちまで偽物になるわけではありません。
目の前の人を助けたい、自分も役に立てたと感じたい、周囲から好意的に見られたいという複数の感情が、同じ行動の中に共存することがあります。現実の人間の心を理解するなら、一つの動機だけを取り出して「本当の理由」と決めつけるより、複数の理由が重なっている可能性を残したほうが自然でしょう。
利他性と自己犠牲は同じではない
他者の利益を大切にすることと、自分を際限なく犠牲にすることも同じではありません。
ある職場で、周囲が困るたびに自分の仕事を止めて助ける人がいたとします。最初は「自分が少し手伝えば済むから」と自然に引き受けていても、それが毎日のように続けば、本来の仕事は遅れ、休む時間まで減っていくでしょう。
それでも本人は、「ここで断ったら相手が困る」「自分だけ楽をするのは申し訳ない」と感じ、頼まれるたびに引き受けてしまうかもしれません。周囲から感謝されるため、本人自身も疲れていることを認めにくくなる場合があります。
利他性そのものが人を消耗させると一般化することはできませんが、他者への強い関心と本人の負担が結びつく場面には注意が必要です。
日本国内の医療機関に勤務する看護師501名を対象とした研究では、純粋に利他的と分類された看護師について、利他性なしの群よりバーンアウト指標の一つである情緒的消耗感が高いことなどが報告されています。ただし、この研究は特定の対象者について関連を検討したものであり、利他性が情緒的消耗感を直接引き起こすと因果的に示したものではありません。
人を助けることと、自分の限界を守ることは対立しません。むしろ、自分まで疲弊しない範囲を理解できているからこそ、誰かを支える行動を長く続けられる場合もあります。
返報性バイアスとは
「返報性バイアス」も検索時には使われる表現ですが、学術研究では主として返報性として扱われます。
返報性とは、相手から受けた行為に応じて、自分も相手への態度や行動を変える傾向です。親切へ親切で応じる正の返報性だけでなく、不公正な扱いや敵意に対して制裁的に応じる負の返報性も研究されています。
本記事で利他性との違いを考えるときには、主として正の返報性を見ていきます。
親切を受けると返したくなる
ある人が、職場の同僚から旅行のお土産をもらったとします。
その場ではありがたく受け取ったものの、数か月後に自分が旅行へ行くことになると、店頭の商品を見ながらその同僚の顔を思い出すかもしれません。「前にもらってうれしかったから、自分も何か持って帰ろう」と感じたのであれば、先に受けた好意が現在の選択へ影響しています。
相手から「必ずお返しをしてほしい」と要求されたわけではなくても、自分だけが受け取った状態に少し落ち着かなさを覚えたり、「してもらったことには応えたい」と感じたりする人はいます。
これは、必ずしも金額を計算して帳尻を合わせるような打算ではありません。
仕事で本当に困っていたときに助けてもらった経験があれば、数か月後にその相手が忙しくしている姿を見たとき、「あのとき助けてもらったから、今日は自分が力になりたい」と自然に思うことがあります。そこには感謝や義理だけでなく、自分だけが受け取る関係にしたくないという感情もあるでしょう。
そのため、返報性を「計算高い人がお返しをする心理」と捉えるのは狭すぎます。正の返報性は、自分が将来得をするためだけではなく、受けた好意に応じたいという感情として現れる場合があります。
返報性には負の方向もある
返報性を「親切を受けたら親切を返すこと」だけで理解すると、概念全体の一部しか見えません。
FehrとGächterによる返報性の研究では、協力的な関係だけでなく、不公正な扱いへの報復的な反応も重要な問題として扱われています。また、返報性は契約や社会規範、集団行動などにも影響を及ぼすと整理されています。
ある人がSNSで強い言葉を向けられた場面を考えてみましょう。
そのまま画面を閉じれば時間を失わずに済むと頭では分かっているのに、「このまま言われっぱなしでは納得できない」と感じ、同じように強い言葉で返したくなることがあります。
返信した直後には少し気が晴れても、その後さらに反論が届けば、やり取りは長引きます。最初は自分の尊厳を守るつもりだったのに、気づけば多くの時間と精神力を使っていることもあるでしょう。
これは親切への返礼とは方向が反対ですが、「相手がどのように振る舞ったかによって、自分の反応も変わる」という点では返報性の枠組みで考えられます。
そのため、本記事で「以前相手から何かを受けたことが関係する」と説明するときには、主として好意への返礼である正の返報性を扱っていると考えてください。
行動のきっかけは見分ける重要な手掛かり
利他性と正の返報性の違いを日常の場面で考えるとき、「その行動の前に何があったのか」を確認することは有用な手掛かりになります。
ただし、これが両概念の正式な定義そのものというわけではありません。
利他性や利他的選好では、他者の利益や援助行為を本人がどのように価値づけるかが重要です。一方、返報性では、相手の親切や敵意などの先行行為によって自分の反応が変わるという条件付きの側面が重要になります。
この違いを踏まえたうえで、身近な場面では行動の前後を振り返ると、両者の違いが見えやすくなります。
利他性では他者の利益への関心を見る
道端で知らない人が転び、持っていた荷物を散らかしてしまった場面を考えてみましょう。
その人とは面識がなく、以前助けてもらった経験もありません。それでも荷物を一緒に拾い、「けがはありませんか」と声を掛けるのであれば、相手が困っていることそのものが本人の判断へ入っています。
この場合、少なくとも直接的な正の返報性よりは、利他的な動機で説明しやすくなります。
正の返報性では相手の先行行為を見る
一方、以前自分の仕事を手伝ってくれた同僚が、今度は締め切りに追われている場合を考えてみましょう。
その姿を見て、「前に助けてもらったことがあるから、今日は自分が残って手伝おう」と感じたのであれば、過去の援助が現在の行動を強く後押ししています。
もちろん、その同僚を心配する利他的な気持ちもあるでしょう。しかし、「以前助けてもらった」という経験がなければ今回ほど積極的には動かなかったと思えるなら、正の返報性が関係しているという解釈がしやすくなります。
時間軸は理解を助ける補助線
利他性を未来志向、正の返報性を過去志向と捉えると、違いをイメージしやすくなる面があります。
利他的な行動では「この行動によって、これから相手の状態が少しでも良くなれば」という方向へ意識が向くことがあります。一方、正の返報性では「あのときしてもらったことに今応えたい」という過去の経験が現在の行動へ影響します。
ただし、これはあくまで理解の補助線です。
利他的な価値観も過去の経験を通じて育つことがありますし、返報的な行動が将来の信頼関係を強めることもあります。したがって、時間の向きだけで分類するのではなく、他者の利益をどのように価値づけているのか、相手の先行行為によって反応がどの程度変化したのかまで見るほうが適切でしょう。
見返りの有無だけでは分けられない
「利他性は見返りなし、返報性は見返りあり」と覚えるだけでは、両者を十分に理解できません。
正の返報性で行動する人が、これから相手から何かをもらおうとしているとは限らないからです。むしろ、すでに受けた好意へ応じたいのであり、自分の将来利益を増やすことが主目的ではない場合もあります。
反対に、利他的な行動をした人が「役に立ててよかった」と満足したとしても不思議ではありません。
そのため、「本人に何らかの利益があったか」だけで分けるのではなく、他者の利益への関心と、相手の先行行為への反応を分けて見ることが大切です。
具体例で利他性と返報性を比較する
日常の行動を、利他性か返報性かの二択へ機械的に分けると、人間の心理を単純化しすぎることがあります。
そこで、具体例については「利他性が強い」「正の返報性が強い」「両方あり得る」という三つの方向から整理します。
| 具体的な行動 | 利他性 | 正の返報性 | 心理的な背景 |
|---|---|---|---|
| 見知らぬ高齢者へ電車で席を譲る | 強い | 弱い | 相手から先に恩恵を受けておらず、相手の負担軽減が主な理由になりやすい |
| 面識のない被災者へ匿名で寄付する | 強い | 弱い | 支援相手から直接返礼される構造がほとんどない |
| お土産をもらった相手へ後日お菓子を渡す | あり得る | 強い | 先に贈り物を受けた経験が返礼を後押ししやすい |
| 同僚に仕事を助けてもらい後日その人を手伝う | あり得る | 強い | 過去の援助への感謝と現在の相手への配慮が重なりやすい |
| 困っている後輩を初めて手伝う | 強い | 弱い | 先行する恩恵より現在の後輩の状況が重要になりやすい |
| 試供品を受け取ったあと商品を購入する | 弱い | あり得る | 商品評価とは別に受け取ったことへの返礼感情が影響する可能性がある |
| 差し入れをもらった部署へ後日差し入れする | あり得る | 強い | 先に受けた好意へ応えたい気持ちが生じやすい |
| 家族が疲れているので食事を代わりに作る | 強い | あり得る | 愛情や責任感を中心に日常的な助け合いも影響し得る |
募金
面識のない被災者への匿名寄付は、一般には利他性で説明しやすい行動です。
支援を受ける人から先に何かをもらったわけではなく、自分の名前が相手へ伝わるとも限りません。それでも「自分の1000円だけでは大きく変わらないかもしれないが、少しでも役立つなら」と考えてお金を出すのであれば、他者の状態への関心が意思決定へ入っています。
ただし、以前自分自身が災害などで支援を受け、多くの人に助けられた経験がある場合には背景が変わります。
「あのとき自分も知らない人たちに助けてもらったから、今度は自分が誰かを支えたい」と感じて寄付するのであれば、目の前の支援対象への利他的な気持ちだけでなく、過去の援助経験から生じる返報的な反応も重なっているという可能性があります。
このように、ある人から受けた好意を、その本人ではなく別の第三者へつなぐ行動は、研究上「一般化された返報性」「上流型返報性」「pay-it-forward reciprocity」などと呼ばれることがあります。
プレゼント
プレゼントも、外から見える行動だけで心理を決めることはできません。
何も受け取っていない段階で相手の好きそうな物を見つけ、「これなら喜んでくれそうだ」と考えて贈るのであれば、相手の喜びへの関心が中心になっています。
一方、以前誕生日プレゼントをもらった相手に対し、「自分だけ受け取ったままでは申し訳ない」と感じて品物を選んでいるのであれば、正の返報性が強く表れています。
同じ店で同じ商品を買って同じ相手へ渡したとしても、片方では相手の幸福への関心が行動を後押しし、もう片方では先に受けた好意への反応が強く働いているわけです。
仕事の手伝い
職場では、利他性と返報性が特に混ざりやすくなります。
ある同僚が大量の資料を抱えて困っているのを見て、「自分には少し余裕があるから、この部分だけでも手伝おう」と声を掛けたのであれば、相手の現在の負担への関心が強く表れています。
ところが、その同僚には以前、自分が締め切りに追われた際に助けてもらった経験があり、「あのとき救われたから、今日は自分が支えたい」と感じているなら、正の返報性も関係しているでしょう。
実際には、「恩を返したいし、本当に困っているから放っておけない」という両方の気持ちが重なる場合も少なくありません。
このようなケースを無理に一つの心理へ押し込むより、複数の動機が同時に行動を支えていると考えたほうが、本人の実感にも近いでしょう。
席を譲る
見知らぬ人へ席を譲る行動は、直接的な正の返報性より利他性で説明しやすい例です。
しかし、ある人が以前けがをしていた際、知らない人から席を譲ってもらった経験を長く覚えており、「あのときありがたかったから、自分も誰かが困っていたら譲ろう」と考えているなら、その過去の経験も現在の行動へ影響しています。
ここでは、以前自分を助けた本人へ返しているわけではありません。「自分がしてもらってうれしかったことを、今度は別の誰かへ渡したい」という流れであれば、一般化された返報性や上流型返報性という考え方と重なる部分があります。
ただし、本人が席を譲った理由を日常の一場面だけから確定することはできず、単純に目の前の人を気遣った利他性と、過去に受けた親切の記憶が同時に働いている可能性もあります。
試供品
無料の試食や試供品を受け取ったあと、「ここまで丁寧に説明してもらって、何も買わずに帰るのは少し悪いかな」と感じることがあります。
その感情が購入を後押ししたのであれば、先に価値を受け取ったことへの正の返報性が関係している可能性があります。
しかし、本当に商品がおいしく、自分に必要な物だと感じて購入したのであれば、返報性だけで説明することはできません。
商品そのものへの評価、価格への納得感、店員への信頼、先に何かを受け取ったことへの感情などが重なって、一つの購入判断になる場合があります。
差し入れ
以前ある部署から差し入れをもらい、後日「今度はこちらからも何か持っていこう」と感じたのであれば、正の返報性が強く表れていると考えやすいでしょう。
反対に、何も受け取っていない段階で忙しそうな部署を見て、「今日はまともに休めていなさそうだから、飲み物でも持っていこう」と思ったのであれば、相手の状態への利他的な関心が中心になっています。
同じ差し入れという行動でも、その前にどのような人間関係や経験があったのかを見ると、利他性と返報性の違いを考えやすくなります。
同じ行動に利他性と返報性が働くこともある
実際の人間関係では、利他性と返報性が互いに排他的に働くわけではありません。
ある人が体調を崩した同僚の仕事を引き受けたとしても、「つらそうだから助けたい」という気持ちだけが理由とは限らないでしょう。以前自分が休んだときにその同僚が仕事を代わってくれた経験や、「この職場では困ったときに支え合える関係でいたい」という価値観まで含まれている可能性があります。
一つの行動に複数の心理が重なることを前提にすれば、「これは利他性」「これは返報性」と一つだけに決めることよりも、何がどの程度影響しているのかを考えるほうが現実的です。
利他性が次の返報性を生む
ある人が、特に見返りを求めず同僚を助けたとします。
助けた本人にとっては利他的な行動だったとしても、助けられた側には「あのとき助けてもらった」という記憶が残ります。その後、最初に助けた人が忙しくなれば、相手は「以前助けてもらったから、今度は自分が手伝いたい」と感じるかもしれません。
最初の人の利他的な行動が、相手側の正の返報性を生んだわけです。
こうしたやり取りが何度も重なると、誰が何回助けたかを細かく数えなくても、必要なときに支え合える関係へ変わっていく場合があります。
受けた好意が第三者への援助につながる
恩を受けた相手へ直接返せない場合もあります。
ある人が新人時代、先輩から何度も丁寧に仕事を教えてもらったとします。数年後に自分が先輩の立場になると、新しく入った社員を見て、「自分も昔こうして助けてもらったから、今度は自分が支えたい」と感じることがあります。
元の先輩へ直接返礼しているわけではありませんが、過去に受けた好意が別の人への援助につながっています。
研究では、ある人から援助された人が、その援助者本人ではなく第三者へ協力する行動を、pay-it-forward reciprocity、upstream reciprocity、generalized reciprocityなどと呼ぶことがあります。Horitaらの研究では、このような協力が確認される一方、繰り返し意思決定する状況では持続しにくいことも報告されています。
したがって、「親切を受ければ、その親切は必ず次の人へ連鎖する」と考えるのも単純化しすぎでしょう。
誰かにしてもらったことを別の人へ返したいと感じることはありますが、その気持ちがどの程度続くのか、実際に行動になるのかは状況によって変わります。
利他性バイアスと返報性バイアスをビジネスでどう見るか
ビジネスでも、利他性と返報性は顧客行動や職場の人間関係を理解する手掛かりになります。
ただし、「返報性を使えば顧客に買わせられる」「利他性を刺激すれば社員が自主的に働く」といった操作手法へ単純化すると、本来理解すべき人の気持ちを見失います。
大切なのは、相手を思いどおりに動かす方法を探すことではなく、その人が何を価値あるものと考え、どのような人間関係の中で意思決定しているのかを見ることです。
無料提供のあとに購入しても返報性だけとは限らない
企業が無料サンプルや有益な情報を提供したあと、顧客が商品を購入することがあります。
その背景には、「ここまでしてもらったから少し応じたい」という返報的な気持ちが含まれている可能性がありますが、商品そのものを気に入っただけかもしれません。説明を受けたことで不安が解消され、購入を決断できたという場合もあるでしょう。
したがって、「無料で何かを渡したあとに購入したから返報性が原因だ」と断定することはできません。
また、提供側が「これだけ無料で与えたのだから、当然買ってくれるだろう」という態度を露骨に見せれば、顧客は好意よりも圧力を感じる可能性があります。
価値を先に提供することと、心理的な借金を意図的に背負わせることは違います。
一つのバイアスだけで顧客を説明しない
ある無料相談のあとに契約が成立したとしても、返報性だけを理由にすると重要な要素を見落とします。
相談によってサービスへの理解が深まった、担当者への信頼が生まれた、競合と比較した結果として条件がよかったなど、複数の理由が存在するでしょう。
行動経済学の概念は、「この人はこのバイアスで動いた」と結果へ便利なラベルを貼るために使うより、「ほかにどのような心理や事情が関係したのだろう」と仮説を増やすために使うほうが実践的です。
職場では他者への貢献が仕事の意味になる
仕事では、自分の報酬や評価だけでは意味を感じにくい人でも、「この仕事によって誰が助かるのか」が分かると、取り組み方が変わることがあります。
たとえば、ある社員へ資料作成を依頼するとき、提出期限だけを伝えるより、「この資料があれば、新しく入った人が同じところで迷わずに済みます」と背景まで伝えたほうが、自分の知識や時間が誰に役立つのかを理解しやすくなるでしょう。
ただし、「人のためになる」と伝えれば、誰もが無理をしてでも働くべきだという話ではありません。
業務量に余裕がなければ、仕事の意義を理解していても引き受けられない場合があります。他者への貢献を動機の一つとして理解することと、従業員の善意へ依存することは分ける必要があります。
利他的な人へ負担を集中させない
職場には、困っている人へ自然に声を掛け、新人から質問されれば自分の作業を止めてでも丁寧に教える人がいます。
周囲にとっては頼りになる存在ですが、その人の親切に組織全体が寄り掛かるようになると、やがて負担が偏ります。
本人も最初は「自分が少し頑張ればいい」と思っているかもしれません。しかし、それが毎日のように続けば、本来の業務が遅れ、休む時間も減っていきます。それでも周囲から感謝されるため、「もう余裕がない」と言い出しにくくなることもあるでしょう。
日本の看護師501名を対象とした研究では、純粋に利他的と分類された看護師について、利他性なしの群より情緒的消耗感が高いことなどが報告されています。ただし、この結果をあらゆる職種へ一般化して「利他的な人ほど必ず消耗する」と考えることはできません。
実務上大切なのは、誰かの善意を性格上の長所として褒めるだけで終わらせず、相談や支援の負担が特定の人に集中していないかを見ることです。
利他性が健全に働く組織とは、親切な人を使い続ける組織ではなく、助ける側と助けられる側が固定されず、必要なときに支援が循環する組織ではないでしょうか。
返報性を暗黙の借金にしない
会社が従業員へ何らかの支援を提供したからといって、「これだけしているのだから、その分余計に働いて当然だ」と考えるなら、自然な返報性とは異なります。
従業員が「大切にしてもらっているから、自分も組織へ貢献したい」と感じる状態と、「与えたのだから返せ」と暗黙に迫られる状態では、本人が感じる意味が大きく変わります。
返報性が良好な人間関係の一部として働くとすれば、相手が自分の意思で応じられる余地を残していることも重要でしょう。
利他性と互恵的利他性の違い
利他性や返報性について調べていると、「互恵的利他性」という言葉に出会うことがありますが、これは日常的な利他性や正の返報性と、そのまま同じ意味ではありません。
互恵的利他性は、進化生物学で論じられてきた理論です。
互恵的利他性とは
Robert Triversが1971年に提示した互恵的利他性の理論では、行為者にはコストが掛かり、相手には利益を与える援助行動であっても、一定の条件のもとでは自然選択によって維持され得ることが説明されています。
Triversの議論では、相互援助だけでなく、援助を受けても返報しない個体をどのように扱うかも重要です。また、人間の互恵的利他性に関連する心理として、友情、感謝、同情、信頼、疑念、罪悪感なども論じられています。
そのため、互恵的利他性を「将来何かを返してもらえると計算して親切にすること」とだけ理解すると、理論を狭く捉えすぎます。
互恵的利他性は、コストを伴う援助が将来の返報可能性や非返報者への対応など一定の条件のもとで、どのように維持され得るのかを説明する進化生物学上の理論です。
人が他者を助ける理由は一つではない
互恵的利他性があるからといって、すべての利他的行動を将来の見返りだけで説明できるわけではありません。
匿名での寄付や、二度と会わない可能性が高い人への援助では、直接的な返礼を期待しにくい場合があります。さらに、経済学では純粋な利他性やウォーム・グローといった異なる動機も研究されています。
人が他者へ何かを与える理由には、一つの答えしかないわけではありません。
相手の幸福そのものが気になる場合もあれば、以前受けた恩を返したい場合もあり、援助したという行為自体から充足感を得ることもあります。また、以前誰かから受けた親切を、別の人へ渡したいと感じることもあるでしょう。
だからこそ、すべての親切を「結局は自分の得のため」と説明することも、反対に「完全に自分とは無関係な純粋な善意」と決めつけることも、人間の心理を単純化しすぎます。
利他性バイアスと返報性バイアスを考えるための手掛かり
利他性と返報性の違いを実生活で考えるとき、自分や他人の心理を簡単な質問だけで確実に診断できるわけではありません。
本人でさえ、なぜその行動を選んだのかを完全に把握しているとは限らず、一つの行動に複数の動機が重なっている場合もあるからです。
それでも、自分の行動を振り返るときに役立つ視点はあります。
まず、「その相手から以前何も受け取っていなかったとしても、自分は同じ行動をしただろうか」と考えてみます。
それでも助けただろうと感じるのであれば、他者の利益そのものへの関心が比較的大きかった可能性を考える手掛かりになります。反対に、以前受けた好意がなければ今回ほど積極的には動かなかったと思うなら、正の返報性が影響していたという解釈ができます。
さらに、「誰にも知られないとしても同じことをしただろうか」と振り返ることで、承認欲求や評判への意識について考えることもできるでしょう。
ただし、このような問いに答えれば心理が客観的に判定できるわけではありません。
「助けたい気持ちが一番大きかったけれど、感謝されればうれしいとも思っていた」「以前助けてもらったことが最初のきっかけだったが、今ではその人自身を心配している」という複雑な答えになることもあります。
むしろ、その曖昧さを無理に消さないことが大切です。
心理を理解する目的は、自分や他人へ正しいラベルを貼ることではなく、一つの行動の奥に、どのような人間関係や感情があったのかを以前より丁寧に考えられるようになることではないでしょうか。
利他性バイアスと返報性バイアスのFAQ
- 利他性バイアスと返報性バイアスは正式な学術用語?
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利他性、利他的選好、純粋な利他性、ウォーム・グロー、返報性などは、行動経済学や社会科学で研究されている概念です。
一方、「利他性バイアス」と「返報性バイアス」という二つを対になる標準的な認知バイアスとして扱う用法は、主要な研究分野で一貫して定着しているとは言いにくいでしょう。
そのため、本記事では検索時に使われる表現として名称を残しながら、内容は研究上の利他性と返報性に沿って説明しています。
- 利他性バイアスと返報性バイアスの一番大きな違いは?
-
一つだけを「最大の違い」と固定するより、利他性では他者の利益を本人がどのように価値づけているか、返報性では相手の先行行為によって本人の反応がどのように変化するかを見ると理解しやすくなります。
日常の場面では、相手が困っていること自体を理由に援助したなら利他性で説明しやすく、以前受けた親切へ応じたい気持ちが大きかったなら正の返報性で説明しやすいでしょう。
- 利他性バイアスには見返りを求める気持ちはない?
-
相手から直接何かを返してもらうことを目的としていなくても、本人が心理的な満足を感じることはあります。
他者の幸福そのものを重視する純粋な利他性だけでなく、寄付や援助をした行為そのものから満足を得るウォーム・グローも研究されているため、「自分もうれしくなったから利他的ではない」と考える必要はありません。
他者への関心と、自分自身が得る満足感は同時に存在できます。
- 親切にされたから親切にするのはどちら?
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受けた親切が現在の行動を直接後押ししているのであれば、正の返報性で説明しやすくなります。
以前仕事を助けてもらった同僚へ、「あのとき支えてもらったから、今度は自分が手伝いたい」と感じる場合が典型です。
ただし、その人が本当に困っている姿を見て、「以前のことがなくても助けただろう」と感じるのであれば、利他的な動機も同時に存在している可能性があります。
- 別の人から受けた親切を第三者へ返すのも返報性?
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研究では、ある人から援助を受けた人が、その援助者本人ではなく別の第三者へ協力する行動を、一般化された返報性、上流型返報性、pay-it-forward reciprocityなどと呼ぶことがあります。
たとえば、若いころに先輩から丁寧に指導された人が、何年もたってから新しい後輩を支援するとき、「自分もしてもらったから、次の人へ渡したい」という感覚を持っている場合があります。
ただし、その行動が一般化された返報性だけで生まれたとは限らず、後輩そのものを助けたいという利他的な気持ちや、職場への責任感などが重なっている可能性もあります。
- 募金は利他性バイアス?
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面識のない人への匿名寄付は、一般には利他性で説明しやすいでしょう。
相手から先に何かを受けておらず、直接的な返礼も期待しにくいため、他者の利益への関心が重要になりやすいからです。
一方、以前自分が支援を受けた経験から「今度は別の誰かを助けたい」と感じて寄付するなら、一般化された返報性に近い感情も重なっている可能性があります。
- 利他性バイアスと承認欲求は同じ?
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同じではありません。
利他性は他者の利益を価値あるものとして扱うことに関係し、承認欲求は他人から認められたり、好意的に評価されたりしたいという自分側の欲求です。
もっとも、現実の行動では両方が重なることがあります。困っている人を本当に助けたいと思いながら、「親切な人だと思われたらうれしい」と感じても矛盾ではありません。
- 利他性バイアスと互恵的利他性はどう違う?
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本記事で便宜上「利他性バイアス」と呼んでいるものは、日常の意思決定で他者の利益にも価値を置く傾向を中心に扱っています。
一方、互恵的利他性は進化生物学の理論であり、コストを伴う援助行動が、将来の返報可能性や非返報者への対応など一定の条件のもとで、自然選択によってどのように維持され得るかを説明します。
そのため、「将来お返しを期待して親切にする心理」とだけ理解すると、互恵的利他性の意味を狭く捉えすぎることになります。
まとめ
「利他性バイアス」と「返報性バイアス」は検索上では分かりやすい表現ですが、学術研究では主として利他性、利他的選好、純粋な利他性、ウォーム・グロー、返報性などの用語が使われています。
両者を比較するときに重要なのは、単純な「見返りの有無」だけではありません。
利他性では、他者の利益や幸福を本人が自分の意思決定の中でどのように価値づけているかが重要になります。一方、返報性では、相手から先に受けた好意や敵意などによって、自分の反応が変化する条件付きの性質に注目します。
日常の場面で「その行動の前に何があったのか」を振り返ることは、両者を考える有用な手掛かりになりますが、それだけが学術上の違いそのものではありません。
また、返報性には、好意へ好意で応じる正の返報性だけでなく、不公正な扱いへ制裁的に応じる負の返報性があります。さらに、受けた好意を元の相手ではなく第三者へつなぐ一般化された返報性や上流型返報性も研究されています。
そして何より、人の行動は一つの動機だけでできているとは限りません。
同僚を助けるときにも、「以前助けてもらったので返したい」という返報性と、「今、本当に困っているから放っておけない」という利他性が同時に存在することがあります。そこへ感謝や承認欲求、公平感、仲間意識、責任感などが加わる場合もあるでしょう。
誰かの親切を見たとき、「優しい人だから」で終わらせる必要もなければ、「結局は恩返しだから」と切り捨てる必要もありません。
その行動の奥にどのような人間関係があり、本人が何を大切に感じ、なぜ今その選択をしたのかまで考えてみる。その視点を持つことで、利他性と返報性は単なる用語ではなく、人の行動や自分自身の意思決定を丁寧に理解するための手掛かりになるのではないでしょうか。
参考資料
佐々木周作、若野綾子、平井啓、大竹文雄「看護師の利他性と燃え尽き症候群:プログレス・レポート」は、純粋な利他性とウォーム・グローを区別し、日本国内の医療機関に勤務する看護師501名について利他的選好とバーンアウトの関連を検討しています。J-STAGEで資料を見る
Ernst Fehr and Simon Gächter, “Fairness and Retaliation: The Economics of Reciprocity” は、返報性が契約や社会規範、集団行動などへ与える影響を整理した研究です。CESifoの公開ページで資料を見る
Robert L. Trivers, “The Evolution of Reciprocal Altruism” は、互恵的利他行動が自然選択によって成立し得る条件や、非返報者、人間の関連する心理機構を論じた基礎文献です。UC Berkeley公開PDFで資料を見る
Yutaka Horitaほか “Transient nature of cooperation by pay-it-forward reciprocity” は、pay-it-forward reciprocity、upstream reciprocity、generalized reciprocityと呼ばれる協力行動を扱い、その持続性を実験的に検討しています。Scientific Reportsで資料を見る
Barbara A. Oakley, “Concepts and Implications of Altruism Bias and Pathological Altruism” は、altruism bias という表現が、本記事で便宜上扱う利他的傾向とは異なる文脈でも用いられていることを確認できる資料です。NCBI Bookshelfで資料を見る