会社員としてこれからも働くつもりなのに、生成AIの急速な進歩や企業を取り巻く環境の変化を見ていると、「今の仕事を真面目に続けているだけで、この先も大丈夫なのだろうか」と、ふと不安になることがあります。
明日突然仕事がなくなると決まったわけではありません。それでも、以前なら人間が何時間もかけていた資料作成や情報整理が短時間で終わり、文章やプログラムの下書きまでAIが作る様子を見ると、これまで当たり前だと思っていた働き方の土台が、静かに動いているように感じます。
だからといって、焦って会社を辞めたり、無理に起業したりする必要はありません。会社員として働くことには、安定した収入を得ながら専門性を育て、実際の商品や顧客、組織、売上、費用がどのようにつながっているのかを学べる大きな利点があります。
これから考えたいのは、「会社員を続けるか起業するか」という二択ではありません。会社員という立場を活用しながら、自分でも顧客や価値、売上、利益、改善を考えられる事業家思考を少しずつ身につけていくという第三の道です。
会社の中でも価値を生み出せて、環境が変わったときには会社の外でも動ける。その状態を時間をかけて作っていくことが、AI時代の現実的なキャリア防衛であり、自分の働き方を自分で選びやすくする備えになるのではないでしょうか。
AI時代に会社員へ事業家思考が必要になる理由
これまでの会社員のキャリアでは、会社から与えられた仕事を正確に処理し、経験を積みながら担当できる範囲を広げていくことが、一つの基本形になっていました。
学校を卒業して会社に入り、若いうちは資料作成や情報収集、集計、問い合わせ対応などを担当します。その過程で仕事の進め方や業界知識を覚え、やがて複雑な仕事や判断を伴う業務を任されるようになるという流れです。
この仕組みそのものが、すぐになくなるわけではありません。
しかし生成AIや自動化技術が普及すると、これまで人間が時間を使ってきた文章作成、情報整理、データ集計、翻訳、要約、初期的な分析、プログラム作成などの一部を、以前より短い時間で処理できるようになります。
OECDが2025年に公表した生成AIに関する研究レビューでも、文章作成、要約、編集、翻訳、ソフトウェア開発などを対象とした実験研究において、生産性の向上が確認されています。一方で、その効果は仕事内容や利用者の経験によって異なり、人間の専門知識や確認が重要になることも指摘されています。
会社員の側から見れば、「面倒だった作業をAIに手伝ってもらえる」という便利な変化でしょう。しかし企業側から見ると、一人あたりの生産性が上がれば、仕事の分担や人間に求める能力を見直す理由も生まれます。
ここで、「AIによって会社員が不要になる」と単純化するべきではありません。
ILOが2025年に公表した生成AIと雇用に関する研究では、世界の労働者のおよそ4人に1人が何らかの生成AIへの職業上の曝露を持つ一方、多くの仕事では完全な消滅よりも、仕事内容が変容する可能性の方が高いとされています。
つまり、現時点で考えるべきなのは、「自分の職業がなくなるか」という問いだけではありません。
自分の仕事を構成している作業のうち、どこまでをAIが支援できるようになり、その結果として人間に求められる能力がどのように変わる可能性があるのかを見る必要があります。
例えば資料作成が容易になれば、資料を作る能力そのものに加えて、「その資料から何を判断するのか」を考える能力の重要性が相対的に高まる可能性があります。
数字を集めることが簡単になれば、数字を並べる作業だけではなく、その変化が顧客、売上、費用、利益にどのような意味を持つのかを読み取る能力が、より重視される可能性もあるでしょう。
同じように、AIが指示された作業を高度に支援できるようになるほど、「そもそも何をするべきなのか」「なぜそれをするのか」「誰のどの問題を解決するのか」を定める能力や、AIの出力を専門知識によって評価する能力の重要性が相対的に高まると考えられます。
ただし、将来どの業務が人間に残り、どの業務がAIへ移るのかを現時点で固定的に予測することはできません。
だからこそ、「この能力だけを身につけておけば安全だ」と考えるよりも、仕事の構成そのものが変わったときに、自分の価値の出し方も変えられる状態を作っておく方が現実的でしょう。
AI時代に事業家思考を提案する理由
ここで、外部資料が示している事実と、本稿がそこから提案しているキャリア戦略を一度だけ分けておきます。
ILOやOECDから読み取れるのは、生成AIによって一部の知的作業の生産性が高まり、仕事の構成が変化する可能性があるということです。
さらに日本では、経済産業省とIPAが2026年4月16日に「デジタルスキル標準 ver.2.0」を公表し、AIやデータ活用だけではなく、ビジネス変革を担う人材像についても整理しています。
DX推進スキル標準では、ビジネスアーキテクト類型の役割が見直され、ビジネスアーキテクト、ビジネスアナリスト、プロダクトマネージャーなどが整理されました。
これらの資料が直接、「すべての会社員は事業家思考を身につけるべきだ」と結論づけているわけではありません。ここから先は、AI時代のキャリアについて考えた本稿の提案です。
もし仕事を構成する作業が変化していくのであれば、会社員も「自分に割り当てられた作業」だけを見るのではなく、その仕事が誰のどのような問題を解決し、何の価値を生み、会社の収益や費用にどのように関係しているのかまで理解しておく方が、環境の変化へ対応しやすくなるのではないでしょうか。
本稿では、この一連の考え方を「事業家思考」と呼びます。
これは社長になるためだけの能力ではなく、会社員が自分の仕事を事業全体の中で捉え直すための思考法です。
そして、この視点を会社員のうちから身につけておくことが、会社の中で仕事の幅を広げることにも、将来別の働き方を考えることにもつながると考えています。
事業家思考とは起業することではない
「事業家思考」という言葉を聞くと、会社を辞めて独立し、自分で会社を経営する姿を想像する人もいるでしょう。
しかし、本稿でいう事業家思考は起業そのものを意味していません。
事業家思考とは、自分の仕事を与えられた作業としてだけ捉えるのではなく、「誰のどのような問題を解決し、何の価値を生み、それがどのように売上や利益へつながっているのか」という構造から仕事を見る姿勢です。
例えば上司から、毎月同じ集計資料を作るよう指示されているとします。
作業を中心に考えるなら、数字を間違えず、期限までに指定された形式で資料を完成させることが目標になります。それ自体は必要な仕事であり、正確さを軽視してよいという話ではありません。
ところが事業家思考を持つ人は、そこからもう一段先まで考えます。
この資料は誰が使うのか、その人は何を判断するために必要としているのか、すべての数字を毎月掲載する必要があるのか、AIや自動化を使って作成時間を減らせないのか、さらに資料の内容を変えることで意思決定を早められないかまで見ていきます。
同じ資料作成という仕事でも、見ている範囲が違います。
作業を中心に見る人は、資料が完成したところで仕事の区切りを考えやすくなります。一方で事業家思考を持つ人は、その資料によって誰の何が改善し、その改善が事業の成果へどうつながるのかまでを考えます。
会社員として事業家思考を持つとは、社長のように振る舞うことでも、権限を越えて会社の方針を決めることでもありません。
自分に与えられた職務と権限の範囲で、小さな事業責任者のように顧客、価値、費用、成果を考えることです。
会社員と事業家で仕事を見る視点は何が違うのか
会社員と事業家の違いを、「雇われているか経営しているか」だけで考えると、本質を見落としやすくなります。
大きな違いの一つは、仕事を見る範囲です。
ここでは会社員そのものを否定するためではなく、「作業を中心に見る状態」と「事業全体から見る状態」の違いとして整理します。
| 評価軸 | 作業を中心に見る視点 | 事業家思考で見る視点 |
|---|---|---|
| 仕事の捉え方 | 割り当てられた業務を正確に完了する | 顧客の課題を解決して成果につなげる |
| 主な関心 | 処理速度や正確性や手順の順守 | 顧客価値やコストや利益や継続性 |
| 顧客の捉え方 | 上司や次工程の担当者を中心に見る | 最終利用者や対価を支払う相手まで考える |
| AIの位置づけ | 自分の作業負担を減らす道具 | 価値創出や検証速度を高めるレバレッジ |
| 問題発生時 | 決められた手順の中で処理する | 原因を探り仕組みそのものを改善する |
| 成果の測り方 | 指示された仕事を終えたか | 顧客や事業の状態がどれだけ改善したか |
例えば経理担当者であれば、請求書を正確に処理することは重要です。
しかし事業家思考では、処理に時間がかかりすぎることで営業や経営判断が遅れていないか、同じミスが繰り返される原因はどこにあるのかまで考えます。
IT担当者なら、システムを仕様書通り完成させるだけでなく、そのシステムによって利用者の時間がどれほど減り、売上や費用にどのような変化が起きたのかを見るようになります。
なお、事業家思考と経営者目線も完全には同じではありません。
経営者には、全社的な資金繰り、株主との関係、法的リスク、人材配置、複数事業への資源配分など、会社全体を統治する責任があります。
一般の会社員がそこまでの責任を負う必要はありません。
まず必要なのは、自分の担当領域について「誰の問題を解決し、何の価値を提供し、事業のどこへ貢献しているのか」と考えられることです。
会社員だからこそ事業家思考を学びやすい理由
「事業について学ぶなら、会社を辞めて自分で商売をしなければ本当のことはわからない」と感じる人もいるかもしれません。
もちろん、独立しなければ経験できないことはあります。
自分のお金を使い、自分で顧客を集め、売上がなければ収入もないという環境には、会社員とは異なる緊張感があります。
ただし、だからといって会社員でいる間は事業を学べないわけではありません。
むしろ会社員という立場には、実際に動いている事業を日常的に観察できるという大きな利点があります。
会社の中では商品やサービスが提供され、顧客が対価を支払い、その売上を作るために営業やマーケティングが動いています。同時に、開発や製造が価値を形にし、経理が収益と費用を管理し、人事や法務などが事業の継続を支えています。
会社員は、自分の職務権限や情報管理ルールを守りながら通常業務へ関わることで、こうした事業の仕組みに触れることができます。
会社のブランド、顧客情報、業務データ、設備、社内ノウハウなどは会社の資産であり、社員が個人的な学習や副業のために自由に利用できるものではありません。
ここでいう「会社員だから事業を学びやすい」とは、会社資産を私的に利用することではなく、職務として認められた範囲で仕事に関わり、その経験を通じて事業の構造を理解するという意味です。
| 比較項目 | 独立して事業を行う場合 | 会社内で事業的な経験を積む場合 |
|---|---|---|
| 資金 | 自分で調達する必要がある | 承認された業務では社内予算を使える場合がある |
| 顧客 | ゼロから獲得する場合が多い | 担当業務として既存顧客と接する機会がある場合がある |
| ブランド | 自分で信用を作る必要がある | 職務上認められた範囲で会社の信用のもと仕事ができる |
| 専門人材 | 必要に応じて自分で確保する | 業務上必要であれば他部署と連携できる場合がある |
| 失敗時の影響 | 資金や生活へ直接影響する可能性がある | 組織内の経験として学べる場合がある |
| フィードバック | 主として市場から受ける | 顧客や上司や他部署から得られる場合がある |
長く会社で働いていると、この環境が当たり前になり、その価値に気づかなくなることがあります。
しかし、「自分は給料を受け取りながら、一つの事業が動く現場を職務として経験している」と捉えると、毎日の仕事は少し違って見えるでしょう。
同じ10年間会社に勤めても、自分の担当作業だけを覚えた人と、顧客獲得、商品開発、収益構造、コスト、組織運営まで意識して観察した人では、会社を離れたあとに残る理解に違いが生まれる可能性があります。
ここまでが、「なぜ会社員こそ事業家思考を学ぶ意味があるのか」という本稿の中心的な答えです。
会社員は事業家思考と対立する存在ではありません。
むしろ実際の事業の中で働いているからこそ、仕事の見方を変えれば、事業について学べる立場でもあるのです。
ここからは事業家思考を身につける実践編
必要性に納得しても、実際の仕事が何も変わらなければ、事業家思考は単なる知識で終わってしまいます。
そこで、ここからは「どう身につけるか」という実践に移ります。
特別な役職へ異動したり、いきなり副業を始めたりする必要はありません。現在担当している仕事の見方を少しずつ変えるところから始められます。
身につけたい5つの力
事業家思考を実務で使える形にするためには、顧客理解、価値提供、売上と利益、AI活用、仮説検証という五つの力を組み合わせて育てると理解しやすくなります。
顧客理解力
事業の出発点は、「誰がどのような問題を抱えているのか」を知ることです。
会社の中で働いていると、自分の作業から仕事を考えがちですが、事業では顧客の問題が先にあり、その問題を解決する方法として商品やサービスが存在します。
例えば顧客から「もっと詳しい報告書が欲しい」と言われても、本当の問題が情報不足とは限りません。
実際には、「情報が多すぎて何を判断すればよいかわからない」という悩みかもしれません。
相手が何を求めているかだけではなく、「なぜそれを必要としているのか」まで考えることが、顧客理解の第一歩になります。
価値提供力
顧客の問題が見えたら、次に考えるのは、その問題をどのように改善するかです。
価値という言葉を難しく考える必要はありません。
相手の時間が減る、間違いが少なくなる、売上が増える、不安が小さくなる、意思決定が早くなるといった変化も十分な価値です。
例えば「経費精算を処理した」という表現では、自分が行った作業しか見えません。
ところが「精算に必要な時間を短縮し、社員が本来の仕事に使える時間を増やした」と考えると、自分が提供している価値が見えてきます。
事業家思考では、何をしたかだけではなく、その結果として誰の状態がどう良くなったのかまで考えます。
売上利益の構造把握力
会社員であっても、自社がどこで売上を得て、どこに費用がかかり、最終的にどう利益を残しているのかは知っておいた方がよいでしょう。
売上が増えているからといって、必ずしも事業が良くなっているとは限りません。
販売するために多額の広告費や人件費が必要なら、売上が増えても利益が残らない場合があります。
反対に、直接売上を増やさなくても、解約や不良を減らし、作業時間を短縮することで利益へ貢献できる場合があります。
自分の仕事が売上、費用、利益のどこに影響しているのかを理解すると、同じ業務でも見え方が変わります。
AI活用力
AI活用というと、メールを書かせたり、資料を要約させたりするところから始める人が多いでしょう。
それ自体は有効ですが、事業家思考と組み合わせるなら、「自分が楽になるか」だけではなく、「生まれた余力をどこへ使うか」まで考えたいところです。
営業担当者なら、提案メールを速く作るだけではなく、商談情報から顧客の課題を整理する補助としてAIを使えます。
経理担当者なら、報告書の文章を作るだけではなく、数字の変化から確認項目を洗い出す補助に利用できる場合があります。
AIによって作業時間が減ったのであれば、その時間を顧客理解、判断、改善、検証などへ移すことによって、初めて事業上の価値へつながります。
仮説検証力
最後に必要なのは、自分の考えが本当に正しいのかを確かめる力です。
会社では丁寧な計画が評価されることがありますが、顧客や市場の反応には不確実な部分があります。
そこで、小さな仮説を立て、小さく試し、結果を確認して修正します。
AIで作業を改善したなら、本当に何時間減ったのかを確認します。営業方法を変えたのであれば、商談数や成約率がどう動いたのかを見る必要があります。
自分では良いと思っていた改善にほとんど効果がなく、「あれだけ考えたのに」と落ち込むこともあるでしょう。
それでも、現実から早く学べたのであれば、その失敗には意味があります。
事業家思考とは、自分の仮説を守ることではなく、現実を見ながら仮説を修正することでもあるのです。
自分の仕事を事業につなげるチェックシート
最初から大きな新規事業を考える必要はありません。
まず、自分が現在行っている仕事を一つだけ選び、事業とのつながりを確認してみます。
| 項目 | 考える問い | 記入例 |
|---|---|---|
| 自分の仕事内容 | 日常的に何を行っているか | 顧客から届く問い合わせの整理と回答 |
| 誰が顧客か | この仕事によって最も助かる人は誰か | 商品利用者と営業担当者 |
| 顧客の課題 | 相手は何に困っているのか | 回答まで時間がかかり不安になる |
| 提供している価値 | この仕事によって何が改善するか | 回答時間を短くして不安を減らす |
| 売上との関係 | どのように収益へつながるか | 満足度を高め継続利用につなげる |
| 利益との関係 | 費用や生産性にどう影響するか | 対応時間を減らして処理コストを下げる |
| AIの使い道 | どの部分を補助または自動化できるか | 問い合わせ分類と回答案作成を支援する |
| 検証方法 | 良くなったことを何で確認するか | 平均回答時間と再問い合わせ率を見る |
全部の欄を埋められなくても問題はありません。
「自分の仕事が利益のどこにつながっているのかわからない」と気づくこと自体に意味があります。
そこから自社の公開資料を読んだり、業務上必要な範囲で上司や関係部署に確認したりして、自分の仕事と事業との距離を少しずつ縮めていけばよいのです。
営業 経理 IT 製造など職種別の鍛え方
事業家思考は、新規事業部門や経営企画だけの専門能力ではありません。
現在の仕事を少し違う角度から見るだけでも鍛えることができます。
営業マーケティング職
営業では受注額や契約件数が見えやすいため、事業とのつながりを感じやすいでしょう。
ただし、「どうすれば自社の商品を売れるか」だけではなく、「導入すると顧客側の売上や費用がどう変わるのか」まで考えると、仕事を見る範囲が広がります。
例えば年間100万円の商品によって顧客が500万円の費用を削減できる可能性があるなら、価格だけを見たときとは提案の意味が変わります。
顧客の事業まで理解できる営業担当者は、商品説明をする人から、顧客と一緒に成果を考える人へ近づいていくでしょう。
経理財務法務などバックオフィス職
経理や法務では、正確さやリスク管理が欠かせません。
ただし、処理だけで終わらせず、業務上認められた範囲で扱う情報から事業上の問題を見つける視点を持つこともできます。
売上が伸びているのに利益率が低下しているなら、その背景には何があるのかを考えるきっかけになります。
法務であれば、必要なリスク管理を維持しながら、契約審査の仕組みに改善余地がないかを見る方法があります。
バックオフィスは売上を直接作らないから価値が低いわけではありません。
事業を速く、安全に、適切なコストで動かせる状態を作ることも、十分な価値提供です。
ITエンジニア職
IT職では、システムや機能を完成させることが目標になりやすいでしょう。
しかし「仕様書通り完成した」だけでは、事業成果までは説明できません。
その機能によって利用率が上がったのか、顧客の離脱が減ったのか、社員の処理時間が短くなったのかまで見ると、技術と事業がつながります。
技術的に作れるものをすべて作るのではなく、価値に対して開発コストが大きすぎるなら仕様を小さくする判断も、事業家思考の一つです。
製造職
製造では、安全、品質、納期、原価が重要になります。
そこで担当工程だけでなく、「なぜ顧客はこの品質を必要としているのか」「不良率を下げることで何が改善するのか」まで考えてみます。
不良率が下がれば、廃棄だけでなく再検査、再製造、返品、問い合わせ対応などの費用が減る可能性があります。
工程改善を事業全体までつなげて見ることで、現場改善の意味も変わってきます。
一般事務総務職
事務職では、「自分の仕事は売上から遠い」と感じることがあります。
しかし、社内の人を内部顧客として考えると見方が変わります。
毎月10時間かかっている作業をAIや自動化で2時間にできれば、残りの8時間を別の仕事へ移せる可能性があります。
さらに、その資料や手続き自体がほとんど使われていないのであれば、作業を続けることではなく、やめることが最も大きな改善になる場合もあります。
「頼まれた仕事をどう速くするか」だけではなく、「この仕事はそもそも必要なのか」と考えるところから事業家思考は始まります。
小さな副業やプロジェクトで事業を一周してみる
会社の中で事業家思考を鍛えることはできますが、勤務先の規則や契約に問題がなく、生活にも無理がないのであれば、小さな副業や個人プロジェクトを経験する方法もあります。
副業の価値は、単に本業以外の収入を増やすことだけではありません。
自分で顧客を探し、価格を決め、サービスを提供し、問い合わせに対応し、売上と費用を確認すると、会社では複数部署に分かれている事業活動を、小さな規模で一通り経験できます。
そこで、「売上を一円作るだけでも、こんなに多くのことを考えるのか」と感じるかもしれません。
会社では仕事が用意されますが、副業では誰も自動的に顧客を連れてきてくれません。
自分には能力があるから売れるだろうと思って始めても、問い合わせが来ないことがあります。
その経験は苦いものですが、「能力があること」と「顧客がお金を払いたいこと」は同じではないと理解するきっかけになります。
厚生労働省の現行「副業・兼業の促進に関するガイドライン」では、副業・兼業によって本業を続けながらスキルや経験を得ることや、将来の起業や転職へ向けた準備や試行ができることがメリットとして示されています。一方で、長時間労働、健康管理、秘密保持義務、競業避止義務などへの注意も必要です。
そのため、副業は「やれば安心できる保険」ではなく、条件が合う人にとって事業家思考を実践できる一つの方法として考えるのが適切でしょう。
顧客を見ずに作ってしまう失敗
副業や個人プロジェクトでは、自分の得意なことから商品を作ってしまうことがあります。
プログラミングが得意だからアプリを作り、デザインが得意だからテンプレートを作ったものの、ほとんど購入されないという状況です。
「これだけ頑張ったのに、どうして売れないのだろう」と感じるでしょう。
しかし顧客の立場から見れば、自分の問題を解決しない商品を購入する理由はありません。
ここから学べるのは、「自分は何が作れるか」より先に、「誰が何に困っているのか」を確認する必要があるということです。
売れたのに苦しくなる失敗
反対に、売れたからこそ困る場合もあります。
顧客を獲得したくて価格を下げすぎると、仕事は増えているのに利益がほとんど残らず、時間だけがなくなっていくことがあります。
「売上が増えているのに、なぜこんなに苦しいのだろう」と感じる原因の一つは、売上と利益を同じように見てしまうことです。
サービス提供に必要な時間、外注費、ツール代、集客費用まで考えると、価格設定が持続可能ではなかったとわかる場合があります。
こうした小さな失敗を経験すると、本業で自社の商品や費用を見るときにも、数字の見え方が変わってくるでしょう。
会社を辞めても残る持ち運べる資産を増やす
長いキャリアを考えるときには、今の会社で評価される能力だけでなく、勤務先や職種が変わっても利用しやすい能力を意識することが重要です。
この文脈で参考になる考え方の一つが「ポータブルスキル」です。
ポータブルスキルは、一般社団法人人材サービス産業協議会 JHR が開発したものです。厚生労働省が公開する「ポータブルスキル見える化ツール」でも、その開発主体が明記されています。
厚生労働省が公開するツールでは、職種の専門性以外に、業種や職種が変わっても持ち運びができる職務遂行上のスキルとして、「仕事のし方」と「人との関わり方」に関する要素が扱われています。
事業家思考を身につけることは、こうした持ち運びやすい能力を育てることとも重なります。
顧客の問題を整理し、課題を設定し、改善案を考え、関係者へ説明して協力を得ながら実行し、結果を確認して修正する経験は、一つの会社の固有ルールだけに依存するものではありません。
一方で、長いキャリアを考えるなら、JHRによるポータブルスキルだけではなく、専門性、実績、信用、自分が適法に保有できる成果物なども含めて、「会社を離れたあとに何が残るのか」を考えるとわかりやすくなります。
次の表は、厚生労働省やJHRによる公式分類ではありません。ポータブルスキルの考え方も参考にしながら、本稿がキャリア資産という観点から独自に整理したものです。
| 本稿独自の分類 | 具体例 | 環境が変わったときの特徴 |
|---|---|---|
| 持ち運びやすい仕事能力 | 課題設定や分析や改善や交渉や合意形成 | 業界や会社が変わっても応用しやすい |
| 専門資産 | 会計やITや製造や営業などの専門知識 | 近い分野では価値を発揮しやすい |
| 信用資産 | 適法に積み重ねた実績や仕事上の評判や信頼 | 長い時間をかけて形成される |
| 個人として保有できる資産 | 自分の権利として適法に保有する作品やコンテンツなど | 雇用関係と切り離して価値を持つ場合がある |
| 持ち運びにくい能力 | 自社固有システムの操作や社内限定の慣習 | 他社では直接利用できない場合がある |
ここで、「もし今の会社を離れたら、自分には何が残るだろう」と考えてみると、少し怖くなるかもしれません。
長く働いているほど、会社の信用や肩書、社内での立場と、自分自身の力との境目がわかりにくくなるからです。
しかし、この問いは悲観するためのものではありません。
足りないと感じるものがあれば、今の会社にいる間に増やしていけばよいのです。
会社で成果を出しながら専門性を高め、AIを使った改善経験を積み、顧客や他部署との合意形成を経験することもできます。
会社の中でしか使えない知識を否定する必要もありませんが、それだけに偏らず、環境が変わっても活用できる能力を同時に増やしておくことが、キャリアの備えになります。
AI時代のキャリアは肩書ではなく選択肢で設計する
これまでキャリアというと、どの会社へ入り、どの部署へ進み、どの役職まで昇進するかという一本の線で考えることが多くありました。
もちろん、この考え方がなくなるわけではありません。
しかしAIや事業環境の変化が速くなるほど、一つの肩書を長期間守ることだけが、最も確実なキャリア防衛だとは言い切れなくなります。
生成AIによる仕事への影響が、単純な仕事の消滅だけではなく、仕事内容そのものの変容として現れる可能性があるのであれば、将来どの職業が残るかを当てることだけに力を使うより、仕事内容が変化したときに自分自身も価値の出し方を変えられる状態を作る方が現実的でしょう。
専門性と事業家思考を持っていれば、現在の会社で新しい役割を担える可能性があります。また、別の企業で能力を必要とされれば転職を検討でき、勤務先の規則や生活条件が許せば副業や個人プロジェクトを試すこともできます。さらに条件が整えば、将来的に独立を考える余地も生まれるでしょう。
重要なのは、これらを全部行うことではありません。
必要になったときに選べる道を増やしておくことです。
選択肢が一つしかないと、「この会社で評価されなくなったらどうしよう」という不安は大きくなりやすくなります。
反対に、自分には社内で別の仕事を担える能力があり、他社でも利用できる専門性があり、必要になれば自分で小さな価値提供を始める方法も知っていると思えれば、心理的な余裕は変わります。
事業家思考があれば失業しないという保証はなく、副業を始めれば将来が安全になるわけでもありません。
それでも、自分で顧客や価値、収益、改善を考えられる能力は、環境が変化したときの備えとなり、キャリアの選択肢を増やす力になる可能性があります。
会社への依存度を下げるとは、会社を嫌うことではありません。
会社を「ここにいなければ生きられない場所」ではなく、「自分の意思で選んで働いている有力な選択肢の一つ」に近づけることです。
その違いは、収入だけではなく心の余裕にも表れるのではないでしょうか。
まず今月やること
事業家思考は、本を何冊か読めば突然身につくものではありません。
自分の仕事を見る位置を少しずつ変え、実際に行動し、その結果を確認することで習慣になっていきます。
今月は大きなことを始める必要はなく、四週間を使って自分の仕事を一つだけ事業の視点から見直してみます。
| 期間 | 行動 | 確認すること |
|---|---|---|
| 第1週 | 事業構造チェックシートへ自分の仕事を一つ記入する | 顧客と提供価値を説明できるか |
| 第2週 | 一つの作業についてAIや自動化による改善を試す | 何分または何時間削減できたか |
| 第3週 | 閲覧権限のある自社資料や公開資料から事業構造を確認する | 会社がどこで売上や利益を生んでいるか |
| 第4週 | 小さな改善案を上司やチームへ共有する | 実際に価値があるかフィードバックを得る |
第1週に自分の仕事を整理して、「誰が顧客なのかわからない」と気づいたとしても、それだけで十分な発見です。
第2週には、毎週行っている作業の一部をAIや自動化ツールで効率化できないか試します。その際には、機密情報や個人情報を未承認のAIサービスへ入力しないなど、勤務先のAI利用ルールや情報管理規程を守ることが前提になります。
第3週には、自社が公開している決算資料や事業説明資料、あるいは業務上閲覧が認められている情報を使って、会社がどのように収益を得ているのかを確認します。
そして第4週には、「この作業をこう変えれば時間を減らせるのではないか」「顧客への回答を変えれば問い合わせを減らせるのではないか」という小さな改善案を一つ作り、周囲へ共有してみます。
すぐに採用されなくても問題ありません。
重要なのは、指示を待つだけではなく、自分で問題を見つけ、仮説を作り、提案し、反応を確認する経験を持つことです。
一か月後に突然、事業家のようになっているわけではないでしょう。
しかし仕事を見るときに、「何を終わらせればよいか」だけではなく、「これは誰の何を良くする仕事なのだろう」と考える回数が増えていれば、それが変化の始まりです。
事業家思考に関するよくある質問
- 事業家思考と経営者目線は何が違いますか
-
経営者目線は、企業全体の資金、組織、株主、法的リスク、複数事業への資源配分などを含め、会社全体を統治する視点です。
一方で事業家思考は、自分の担当する仕事や事業について、誰の問題を解決し、どのような価値を生み、どのように持続可能な成果へつなげるかを考えるところから始まります。
会社員が日常業務へ取り入れるなら、まず事業家思考から始める方が現実的でしょう。
- 起業する予定がなくても必要ですか
-
起業予定がなくても、身につける意味はあると考えます。
仕事の構成が変化する可能性があるのであれば、自分の担当作業だけではなく、顧客、価値、収益、改善まで考えられる能力を持っておくことで、現在の会社で仕事の幅を広げたり、環境変化に合わせて別の役割へ移ったりしやすくなる可能性があります。
起業するためだけではなく、会社員として仕事を続けるためにも利用できることが、事業家思考の特徴です。
- 普通の事務職でも身につけられますか
-
十分に身につけられます。
事務職であれば、自分の仕事を利用する社内の人を内部顧客と捉え、その人の時間や負担をどれだけ減らせるかを見るところから始められます。
AIや自動化で定型作業を減らすだけでなく、空いた時間を分析や改善へ移したり、「この資料や手続きは本当に必要なのか」と問い直したりすることも、事業家思考の実践になります。
- AIスキルと事業スキルならどちらを優先すべきですか
-
両方を組み合わせることが重要ですが、土台になるのは「何を解決するのか」を考える力です。
AIは非常に強力な手段ですが、顧客が必要としていないものを高速に作っても、大きな価値にはつながりません。
誰が何に困っているのかを理解し、その問題を解決するためにAIをどう使うのかという順序で考える方が、事業への貢献を明確にしやすいでしょう。
- 副業をしないと事業家思考は身につきませんか
-
副業は必須ではありません。
本業の業務改善、社内プロジェクト、新規提案などでも十分に鍛えることができます。
副業には、顧客獲得、価格設定、サービス提供、収支管理などを小規模ながら一通り経験できる利点がありますが、労働時間や健康管理、秘密保持、競業などへの注意も必要です。
自分の環境に合った方法を選ぶことが大切でしょう。
- 何から始めるのが一番簡単ですか
-
今日行った仕事を一つ選び、「誰が顧客で、何の問題を解決し、会社の売上や利益のどこにつながっているのか」を書いてみる方法が簡単です。
全部答えられなくても問題ありません。
答えられない場所があれば、そこが次に調べる場所になります。
事業家思考は、特別な役職に就いてから始まるものではありません。
毎日の仕事へ「これは何のために存在するのだろう」という問いを加えるところから始められます。
まとめ
AI時代に備えるために、すべての会社員が起業する必要はありません。
現実的なのは、会社員という立場を活用しながら、顧客理解、価値提供、売上と利益、AI活用、仮説検証という事業家思考を少しずつ育てていくことです。
会社員には、職務権限や情報管理ルールを守りながら、実際に動いている事業の中で顧客、商品、収益、組織のつながりを学べる利点があります。
その環境を生かして専門性や事業を見る力を育て、会社が変わっても活用しやすい能力を少しずつ増やしておけば、現在の勤務先だけに依存しないキャリアを作りやすくなるでしょう。
事業家思考があれば必ず仕事に困らないとは言えません。
それでも、会社の中でより価値の高い仕事へ挑戦し、環境が変わったときには転職、副業、独立などを現実的に検討できるだけの力を持つことは、将来への備えになります。
何かが起きてから「会社の外で自分には何ができるのだろう」と慌てて考えるよりも、働いている今から少しずつ準備しておく方が動きやすいでしょう。
まず今月、自分が日常的に行っている仕事を一つだけ選び、誰のどのような問題を解決し、何の価値を生み、それが売上や利益のどこへつながっているのかを考えてみる。
そこから、仕事を見る位置が少しずつ変わっていきます。
会社員でいることと、事業家のように考えることは矛盾しません。
会社員という環境を活用しながら事業を見る力を身につけ、将来の選択肢を増やしていくことが、AI時代に自分のキャリアを自分で支えるための現実的な方法ではないでしょうか。
参考資料
本稿の主軸である生成AIによる仕事の変化、AI時代のデジタル人材像、ポータブルスキル、副業・兼業について確認する場合は、以下の一次資料や公的資料が参考になります。
ILO Generative AI and jobs A 2025 update
生成AIへの職業上の曝露と、多くの仕事では完全な消滅より変容が主要な影響になる可能性について確認できます。
OECD The effects of generative AI on productivity innovation and entrepreneurship
生成AIによる生産性への影響、人間の専門知識やAIとの協働、研究結果を長期的な労働市場へ一般化する際の限界について確認できます。
2026年4月16日に公表された「デジタルスキル標準 ver.2.0」の改訂内容と、ビジネスアーキテクト、ビジネスアナリスト、プロダクトマネージャーなどの役割を確認できます。
IPA デジタルスキル標準 ver.2.0 資料ダウンロード
デジタルスキル標準 ver.2.0の本編やDX推進スキル標準の資料を確認できます。
ポータブルスキルが一般社団法人人材サービス産業協議会 JHR によって開発されたことや、「仕事のし方」「人との関わり方」の考え方を確認できます。
ポータブルスキルの開発主体による定義と構成を確認できます。
厚生労働省 副業・兼業の促進に関するガイドライン 令和4年7月8日改定版
副業・兼業のメリットに加えて、労働時間管理、健康管理、秘密保持義務、競業避止義務などを確認できます。
ガイドラインや関連資料を確認できる厚生労働省の案内ページです。